第百八十三回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説について




『日本に「新たな可能性」をもたらすこれらのイノベーションを、省庁の縦割りを打破し、司令塔機能を強化して、力強く進めてまいります。世界の優れた企業は、日本に立地したいと考えるでしょうか。むしろ、我が国は、深刻な産業空洞化の課題に直面しています。長引くデフレからの早期脱却に加え、エネルギーの安定供給とエネルギーコストの低減に向けて、責任あるエネルギー政策を構築してまいります。東京電力福島第一原発事故の反省に立ち、原子力規制委員会の下で、妥協することなく安全性を高める新たな安全文化を創り上げます。その上で、安全が確認された原発は再稼働します。』(施政方針演説2013年2月28日:http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement2/20130228siseuhousin.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter)



福島民報平成25年3月1日(金)朝刊の「再稼働明言」の記事はこの部分の切り取りだと思うけど、結局、「経済を重視した上での原発再稼働」ってことですね。自民党は、やっぱり、根本が変わっていない。この人たちの体質は変わっていない。間に「安全性うんぬん」とか挟めたりして、微妙に行間をずらしているけれど、結局は「エネルギー安定供給とエネルギーコストの低減のために、原発再稼働します」ってことでしょう。代替エネルギーも同時に開発しようが、それまでの当面の間であろうが、「経済性を重視した原発」の再稼働には変わらない。

仮に安倍首相の土俵にのって話をするとですよ、『日本に「新たな可能性」をもたらすこれらのイノベーションを、省庁の縦割りを打破し、司令塔機能を強化して、力強く進めてまいります』だとか『優れた人たちは、今、日本で能力を発揮したいと考えるでしょうか。日本での研究環境に満足できない研究者たちが、海外にどんどん流出しています。「世界で最もイノベーションに適した国」を創り上げます。総合科学技術会議が、その司令塔です。大胆な規制改革を含め、世界中の研究者が日本に集まるような環境を整備します。その萌(ほう)芽とも呼ぶべき「希望」に、私は、沖縄で出会いました。「非常に素晴らしい研究機会が与えられると考えて、沖縄にやってきた。」アメリカから来たこの学生は、かつてハーバード大学やイェール大学で研究に携わってきました。その上で、昨年開学した沖縄科学技術大学院大学で研究する道を選びました。最新の研究設備に加え、沖縄の美(ちゅ)ら海に面した素晴らしい雰囲気の中で、世界中から卓越した教授陣と優秀な学生たちが集まりつつあります。沖縄の地に、世界一のイノベーション拠点を創り上げます。』(同演説)とかいうのなら、そもそも、その『イノベーション』とやらで原発に頼らない『エネルギー安定供給とエネルギーコストの低減』を実現してみてほしいと思うのは、僕だけでしょうか。それこそ『イノベーション』に臨む姿勢ではないかと。誰もやってない方法、誰かがやっていても実用化まではたどり着けない、そんな原発にたよらないエネルギーの安定供給、コストの低減は、それこそ『イノベーション』ですよ。自民党の河野太郎氏は2012年11月23日のブログで『原発の再稼働には、まず、新しい安全基準の策定が必要です。そして新しい安全基準に適合するかどうかの確認が必要です。さらに活断層等の調査のように電力会社がいい加減にやってきたものの再調査も必要です。きちんとその作業をするためには時間が掛かります。それに3年ぐらいかかるだろうという目安をだしました。』(http://www.taro.org/2012/11/post-1287.php)と語っていますが、予算と労力を傾けた3年間じゃ、代替エネルギーの『イノベーション』を達成するのは無理でしょうかね。じゃ、日本経済の復興も、安倍政権では無理そうですね。

さて、いったんあがった土俵をおりますが、だいたい、政権公約で『原子力の安全性に関しては、「安全第一」の原則のもと、独立した規制委員会による専門的判断をいかなる事情よりも優先します。原発の再稼働の可否については、順次判断し、全ての原発について3年以内の結論を目指します。安全性については、原子力規制委員会の専門的判断に委ねます。』(自民党政権公約:http://jimin.ncss.nifty.com/pdf/seisaku_ichiban24.pdf)とかいっていますけど、『原子力』ってもともと「安全じゃないもの」ですよね。「安全じゃないものの安全性」って何なのかって話ですよ。

JISでは、安全性を〈人間の死傷又は資材に損失若しくは損傷を与えるような状態のないこと〉と定義している(JIS Z 8115(1981))らしいですが、自民党の河野太郎氏は同ブログで『福島に津波は来ないという想定がなされていたように、原発にはテロリストは来ないという想定で、再稼働などが行われています。自民党は、テロ対策も含む安全対策が行われねばならないということを明確にしました。』(http://www.taro.org/2012/11/post-1287.php)といってるわけで、そういう想定をしての『安全性』の『確保』を自民党として考えてるのなら、自民党は何がどうなったら『安全性』を『確保』したといえるのか、僕には見当もつかなくなります。自らが過去にしていた『福島に津波は来ないという想定』を非難し、『テロリストは来ないという想定』と、そういう想定をした民主党を非難している自民党は、つまり「○○はないだろう」という想定自体を非難している訳ですよね。いや、それでいいんです。そうあるべきだと思うんです。でも、「○○はないだろう」がない状態なんて作り出せるのでしょうか。「人が作り出した『安全性』、人が考えだした『安全性』の不確かさ、それに対する自然や運命の畏しさを学んでいないんでしょ、結局」そう思ってしまいます。「安全じゃないものの安全性」って結局、人智でしかなくて、その人智を超えた自然への畏れを、自民党は学んでないと僕は思うわけです。

と、ここまで書いて気がつきました。自民党はもうそれに既に気がついているんですね。なるほど。だから『安全性については、原子力規制委員会の専門的判断に委ねます』っていうんですね。『委ね』るって、、、言葉の意味わかっていますよね、「すべてまかせる」という意味ですよ。『安全性については』「すべてをまかせる」。やり方がずるいですね。『安全性については、原子力規制委員会の専門的判断に委ねます』って、自民党は『安全性について』は責任は持たないのですね。『自民党は、テロ対策も含む安全対策が行われねばならないということを明確にしました。』と語った舌の根も乾かないうちに。「専門的判断をもとに、あらゆることを想定し、自民党が責任を持って判断いたします」じゃない。「だって、あの専門家の人たちが大丈夫っていっているから、大丈夫です!」ってことでしょう。「誰かが下した自らの責任ではない安全性をもとにした安全対策」って何でしょう。びっくりします。「他人様に安全性の判断をゆだねておいて、安全性を確保しました!」ってどういうことかよくわかりません。これって何かあったときに「だって、あいつが大丈夫っていってたんだもん!専門家の人たちがいってたんだよ?」と言う感じで、いつもと同じ姿勢ですよ。

こういうことをいうと「じゃ、あなたはすべての安全性をあなたが検討し、あなたが判断するのですか?」といってくる人がいるけれど、僕は少なくとも「この人の言っている安全性を私自身が確信し、安全性が確保されていると判断しました」とならない限り、原発なんて再稼働しませんよ。飼い主に「うちのドーベルマン、賢くてね。絶対に噛まないの」とか言われたって、「うそつけ!どんなに賢かったとしても、絶対に噛まないなんて事はないだろ。初対面でしっぽ踏んで興奮したら噛むことだってあるでしょう」って考えるのが当然でしょう。「いやいや、安倍さんだってそういっているんですよ」という人は、何も今回の原発事故から学んでいない。何度も言うように「○○はないだろうという想定」が存在しない状況なんてありえないわけで、それを考えたらそういう言葉なんて、出てこないはずです。

『これまで原子力政策を推進してきたわが党は、このような事故を引き起こしたことに対してお詫びする』(自民党選挙公約(案)政権公約Jーファイル2012:http://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/j_file2012.pdf)とかいっているけれど、それで出た結論が「安全性の判断は、専門家の方々にまかせましょう」という、つまり「肝心なところには無責任でいく」ということでしょう。それが反省に立った新しい自民党の姿勢ですね。「自分たちは原発を「いいよ!いいよ!」といってきましたけれど、それが本当に良いかどうか、自分たちで判断するのが間違っていました」ということをいってるだけの話ですよ。『お詫び』している人の腹の底が見えます。どうしたら、東北で苦しんでいる人たちのことを思いながら、そういうことを考えることができるのか、私にはさっぱり見当もつきません。

そう考えたとき『今を懸命に生きる人たちに、復興を加速することで、応えていかねばなりません。解決すべき課題は、地域ごとに異なりますが、復興庁が、現場主義を徹底し、課題を具体的に整理して、一つひとつ解決します。福島は、今も、原発事故による被害に苦しんでいます。子どもたちは、屋外で十分に遊ぶことすらできません。除染、風評被害の防止、早期帰還に、行政の縦割りを排し、全力を尽くすべきは当然です。しかし、私たちは、その先にある「希望」を創らねばなりません。若者たちが、「希望」に胸を膨らませることができる東北を、私たちは創り上げます。それこそが、真の復興です。』(同演説)とかいう言葉の軽さに憤りを覚えます。
「『これまで原子力政策を推進してきた』自民党が、何をヒーロー気取りで語ってんだか」とその軽さにいらつきを覚えます。これが『わが党は、このような事故を引き起こしたことに対してお詫びする』立場の党の総裁の物言いでしょうかね。僕にはそうは思えません。「あなたたちが進めてきたことの結果、苦しんでいる人が存在するようになって、子ども達が屋外で遊べない状況をつくり、みんなの日常を壊したんじゃないか」と怒りを覚えます。それでて原子力発電に対する姿勢がこれですから「ただ原発再稼働したいだけでしょうよ」と嫌悪感を覚えます。

どこをどうしたら『これまで原子力政策を推進してきたわが党は、このような事故を引き起こしたことに対してお詫びする』立場の自民党が、経済を重視した『エネルギーの安定供給とエネルギーコストの低減に向けて』、人の限界や自然への畏れを無視した状態で、『安全性の確保を原子力委員会の専門的判断に委ね』る無責任な姿勢で『確保』する、無責任な『安全性』を前提に、『安全が確認された原発は再稼働します。』と語れるのか。やっぱり「ただ原発を再稼働したい」ということしかその理由は見つからない。

そんな無責任なことを語りながら、何の面下げて『若者たちが、「希望」に胸を膨らませることができる東北を、私たちは創り上げます。それこそが、真の復興です。』と語れるのでしょうか。これが、施政方針ですよ。これが政治を施す方針であることに、36歳の若者へ希望を与えるどころか、怒りと絶望を与えていることに、安倍首相は気がついていないのでしょうか。


出来事を通じて得られること。

今日は2012年度の第2回学校見学の日。10組23名の方が参加してくれた。中学校の先生が引率してきてくれた組が2組も。今までそんなことなかった。昨年、余市町内の中学校の先生が引率して参加してくれたが、2年連続で中学校の先生が来てくれたのは、「北星余市」への認識というか、イメージがかわってきてくれたということなのかな。

10:30スタートで冒頭のあいさつをした。2回目の学校見学会では、トンボ玉というガラス玉をつくるのだけど、「楽しむコツは、いいものをつくろうとしないこと」という話をする。「いいものをつくろう」「誰かにほめてもらえるものをつくらないと」と思って創ったって、なんにもいいものはできない。そこには中身のないものができあがるような気がする。

市場経済の場においては、消費者が認めてくれるいいものをつくらないと売れない。だから、お客様が望むものを創らねばならないという前提がある。しかし「人の望むものは何か」ばかり追いかけているうちに、気が付けば大切なものを失っているような気がするのである。

ガラスを火であぶるという体験をしたことのある人は少ないだろう。ガラスを火であぶるとどうなるのか、例えば、そういう自分の中に無意識にあるはずの問いに目を向けてほしい。溶けるのか、色は何色に変わるのか、赤く燃えるのか、オレンジか、はたまたガスコンロのように青くなるかもしれない。そうして、あぶったらどうなったか、その場で起こる変化を楽しんでほしい。ガラスを火で温め、急に温度をあげるとガラスは「パチン」といって飛び散る。予想もしないそんな現象に出くわしたとき、そういう変化、出来事を楽しめる。「なんでだろう」と素直に思える。そういう人は強いと思うし、得るものも大きいと思う。それには「認めてもらえるいいものをつくらないと」という気持ちは邪魔な気がする。ガラスは急に熱すると割れるものであって、水飴状にグニャーンとさせるには少しずつガラスを熱していくものなんだということを理屈と体で感じる。

疑問に思い、自分なりに推測し、目の前に起こった出来事をありのままに受け止めながら考えを巡らせる。その流れを楽しむ。そういうことを多く経験し学びを得た者が、豊かな生き方のできる人間なのだと思う。僕は、そういう体験を子どもたちにさせてあげることがいいのではないかと思っている。なんか、そういう企画、考えようかな。

中学生くらいの子ども達のなかに、そういう生きる楽しみ方を知っている子がどれだけいるか。成績のいい子どもの中だとしても、少ないと思う。まして、学校の勉強が苦手な子なんかは、「俺は勉強ができないから、ダメな人間だ」と思っている子は多い。もったいないと思う。

という気持ちを込めて話したけど、伝わったかな。ま、そこまで話してないから、伝わってないか。

それにしても、生徒たちが参加者の方を引率してくれたのだが、この子達も本当によく成長したな・・・とあらためて思った。学校の説明なんて、僕の説明なんかより全然わかりやすかったし、気遣いもよくよくできてた。素敵な子たちだよ、本当に。お互い足りないところを補い合って、協力し合って進めてくれてた。こんな素敵な子たちも、3年前までは暗闇の中を歩いていたんだと、世の中にはそういう素敵なものを潜在的に秘めていながら、今、暗闇の中で生みの苦しみをしている子たちがいるんだと思うと、北星余市は本当に大切にしたい場所だと、彼らをみて、あらためてそう思った秋晴れの一日だった。



スクールソーシャルワーカーとは  ぶどうの会 No.51より


スクールソーシャルワーカーは学校においてソーシャルワークを実践する人で、基本的な姿勢は次の「ソーシャルワーク」の定義にあります。
「ソーシャルワーク専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を勧め、人間関係における問題解決を図り、人びとのエンパワーメントと開放を促していく。ソーシャルワークは人間の行動と社会システムに関する理論を利用して人々がその環境と相互に影響しあう接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。(IFSW,2000,7)」(IFSW:国際ソーシャルワーカー連盟)
ソーシャルワーカーは人がより良く生きること(ただ単に困難に直面している人を保護的ンい支援するだけではなく、より良い状態を維持できること)をめざし、社会変革を進めていく人です。そしてまた、「人権」や「社会正義」という原理を大切に活動するのです。
スクールソーシャルワーカーにとっての「人権」とは「子どもの権利条約」や児童福祉法の第一条から第三条にある児童福祉の原理であり、権利が侵害された状況にある場合は速やかにその状況を改善し、権利を保障していくことが役割です。また、「社会正義」は「社会のすべてのメンバーが同じ基本的権利、保護、機会、義務、社会的恩恵を得ている理想的な状態」(ベーカー:Baker.R.L.)というようにすべての子どもが平等にその人らしく生活できるよう不平等な環境を改善するために社会の制度や教育の仕組みに働きかける役割もスクールソーシャルワーカーは持っているということです。

ぶどうの会 No.51 子どもの権利のために『支える』『つなぐ』『つくる』スクールソーシャルワーカーという仕事 屋マン試験教育委員会 富士東部教育事務所 スクールソーシャルワーカー 渡辺実子

NPO法人青少年就労支援ネットワーク静岡、10周年記念イベント、宮本みちこ先生の講演より


〇2002年の著書「若者が『社会的弱者』に転落する」で、若者はわざわざ自由を謳歌するために非正規雇用の道をわざわざ選んでいるという見方は間違いだ、と書いた。

〇行旅死亡人問題というのがある。行旅死亡人とは、飢え、寒さ、病気、もしくは自殺や他殺と推定される原因で、本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すもの。この行旅死亡人の中には、働き盛りの年齢であるべき現役世代にもいる。
NHKでそういった人たちの過去をたどっていく番組を放映した後、若者たちから「明日の自分を観る思いだ」という反応が多数帰ってきた。

〇就労支援というのは「職につなげればよい」という話ではない。

〇働き盛りの若者が過酷な労働環境の中で体調を崩し、離職。その後ホームレスになるという話は後を絶たない。

〇かつては婚活や就活というのは、縁故、つまりおせっかいによって成り立っている面も多くあった。その点、静岡方式はおせっかいなおじさんおばさんによって活動が保障されている。今の日本の社会は「最終的には本人が決めることだから」と口にすら出さない。

〇行政組織が縦割りで有効に機能していないという課題がある。

〇生活保護の受給率が急増している。戦後最大。中でも一番増加しているのは60代だが、30代・20代の受給者が大幅に増えている。働ける人たちが働けないという現状。こういう人たちが生活保護を高齢期に受給するとなると、20兆円もの予算が必要となってくる。これはこれで問題だが、それ以前にはたしてそういった人たちがここまで生きられるかどうかという問題もある。

〇よりそいホットラインというのがある。常時30~40もの回線を用意し、相談を受けているが、常に鳴りっぱなしの状態である。この日本の状態は壊れていると感じている。

〇義務教育における学力とはなにか。後期中等教育を修了することは大切なことだが、単に卒業証書を与えるためではない。

〇「将来は明るいのか?」というアンケートに、日本は5%、フランスは26%しかYESの回答がない。「終身雇用のスタイルをとっている国は低い」とする説がある。「グローバル経済の流れの中で、終身雇用のスタイルを保つ」ために、終身雇用の制度の周辺から崩していっている。そのことに問題があるという見方がある。若者はその制度の中核に入って行けるかどうかが、鍵となる。しかし、周辺に追いやられているという実態がある。それが資格競争を激化させているという見方もあるし、進学プレッシャーが両国ともに重い。能力主義、メリトクラシー(個人の持っている能力によって地位が決まり、能力の高い者が統治する社会)。

〇現在働いているが、それが「教育訓練」につながっておらず、キャリアの積み重ねになっていない。読み書き計算などの基礎的な学習への支援、資格試験の勉強。「空間を埋める橋」が必要である。学び直しの必要な若者がいる。本質的な問題は進学させるかどうかというところではない。



子どもたちの育ちあい~現代の思春期・青年期を考える~ /エルムアカデミー より。『自己肯定感情』を育てる(坂口先生)のことば。


子どもたちの育ちあい~現代の思春期・青年期を考える~ 発行:エルムアカデミー

『自己肯定感情』を育てる
坂口
今の子どもたちを見ていて一番危惧していることは自己肯定感情が低いことです。自分のことを肯定できないと他者との関係が切り結べない。他者の先には社会がある。その社会とどう切り結んでいけばいいのか、わからなくなっている。だから、子どもたちが他者と、そして社会とつながり、自分がどう生きていくのか、を考えるときの下支えになっているものが自己肯定感情です。
どのようにして自己肯定感情を育てていくのか。エルムで今、大事にしているのは自分を他者に向かって表現すること、自己開示をすることです。ありのままの自分の姿、ときとして、なかなか人に言えないようなことを他者に語り
それが受け入れられる。そして何らかの形で評価される。この一連の流れが非常に大事です。どんな場面でも、とにかく子どもたちが多くの他者と関わりながら、自己肯定感情を得るのかという観点を握って離さないように実践を組み立てています。
思春期の子どもたちは、だれもが「誰かに自分を知ってもらいたい」「相談したい」「一緒に考えてもらいたい」という気持ちをもっています。
思春期に入り自分のことが少し客観的に見えると、今まで自分の中で意識もされてこなかった自分のマイナス面が顕在化していきます。それが見えてくると「自分って何だろう」と、自分がわからなくなり、苦しくなります。だから、本当は誰かに「言いたい。伝えたい。わかってもらいたい」のだけれども、今まで一番身近にいた親とは、思春期特有の距離をとるために、本当のことはなかなか言えません。
学校の仲間にもやっぱりなかなか言えない。今の学校には排除の論理があるので、ちょっとでもみんなと違うことをするとすぐにハブられて、はじかれてしまう。本当の気持ちがいいづらい。だから、孤独になっていく。表面的には盛り上がって、仲良くしているように見えても、本当はすごく孤独で、「どうしたらいいんだろう」と、自分の気持ちを知ってほしい思いがある。一方で、「誰にも知られたくない」という矛盾する気持ちもあります。それは、子どもたちが劣等感、自己否定感情を抱えているからです。告白する、誰かに伝えるというのは、自分をさらさなきゃいけない。傷口をさらさなければいけない。それはものすごくいたい。「これ以上傷つきたくない」、だから「触られたくない」「いいたくない」という気持ちなんです。
ここからが本題です。子どもたちが僕ら教員に自分の本当の気持ちが言えた、少し自己開示できた。でも、これだけでは子どもたちは満足しないんです。落ち着かないのです。話を聞いてあげても、それは一時的に落ち着くだけであって、また元に戻っていく。なぜかと言うと、とにかく子どもたちの頭の中の大部分を占めているのは、やっぱり友だちだからです。思春期では友だちが決定的です。「友だちに自分がどう思われているか」「友だちと比べて自分はどうなのか」」ということです。「周りから自分が変に思われるんじゃないか」ということを、子どもたちはものすごく恐れている。
ですから、自分の抱えている者を友だちに自己開示できて、友だちから受け入れられて、友だちから評価を受けないと、子どもは本当の意味で安心できないし、自己肯定感情にはつながらないのです。
でえすから、同世代の友だちとどうつなげるか、同世代の友だちにどういうふうに自己開示させて、それを受容させていくか、ということをいつも考えています。

子どもと保育が消えてゆく ~「子ども・子育て新システム」と保育破壊


現在会期中の第180回通常国会で、子育て新システムについて一連の法案が提出されている。

第180回 通常国会:http://www.cao.go.jp/houan/180/index.html

先日、名古屋市で弁護士をされている川口創先生(名古屋第一法律事務所所属)から、一冊の本が送られてきました。

子どもと保育が消えてゆく ~「子ども・子育て新システム」と保育破壊


「幼稚園と保育園が分かれていて非効率な状態を効率的に」「待機児童の問題を解消できる」なんてことで一時期メディアなんかにも取り上げられていたけれど、今は消費税の論議に紛れ込まされて見えなくなっていますね。

この「子ども・子育て新システム」そんないい話ではないようです。しかも、議論がまとめられての法案提出でもない。そこら辺の経過は、このサイトをみると分かりやすいと思います。

子ども・子育て新システム検討会議ウォッチング:http://kosodateouendan.sblo.jp/

保育はとても重要な営みです。子どもの基礎の基礎をつくる、本当に大切な営み。もう、国会に法案が提出されてしまっていますが、これによっていったいどうなるのか、知っておく必要があると思います。

読んでほしいと思う一冊です。




(一部抜粋)
この国では、「市場原理を入れると質が確保される」ということが、あらゆるば面でずうっと言われてきました。仮に保育の場面で「市場原理」が原則となれば、英語教育とか、体育教室など、さまざまな「オプション」を入れて、他の保育園と選別化を図ろうという保育園が出てくることは予想できます。こういった「オプション」は、親や第三者にも「やっていますよ」とアピールしやすく、また親から高い保育料を取りやすいでしょう。そして、保育を市場化することによって、こういった「オプション」をつけることが「高い質」だという風潮が、さらに強まる危険があると思います。しかし、娘の誕生会を通して、「保育の質」というのは、英語教育とか、そういったところにあるのではなく、保育の基本に忠実に、一人ひとりにしっかり目を書け、大事にしていくところにあると思いました。しかも、子どもは一日で「育つ」わけでなく、時間をかけて育つのですから、その育ちを年単位で長期的に見てくれることが大事です。
新システムが通れば、至上主義が原則となります。そこでは「コスト意識」が最優先とされ、一人ひとりに十分な手をかける保育はできません。また、キホンに忠実な保育をしていては、「高コスト」になります。人件費削減によって、保育士の入れ替わりも激しくなるでしょう。子どもを長期的に見てくれる保育士がいないことは、親にとっても子どもにとっても安心できません。子どもは信頼できる保育士をつくることができず、不安定になってしまいかねません。「市場原理」では、今の保育の質が逆に低下していくことにならざるをえません。
子どもたちは、いろいろな面をもっています。娘の通う保育円は、子どもたちのありのままをまるごと受けとめて、長い目で子どもの「育ち」によりそってくれています。何か問題行動があった場合には、一方的にしかりつけるのではなく、ときにはぎゅっと抱きしめて、時間をかけてその子どもの気持ちに寄り添ってあげることも大事だということを、ぼくは保育園から学びました。そういった保育を実践するには、時間もかかりますし、保育士と子どもとの間に時間をかけた信頼関係が必要です。しかし、こういった保育はきわめて非効率ですから、「市場原理」のなかでは「高コスト」ということになってしまします。新システムによって、娘の保育園などは「非効率な園」として、つぶれてしまいかねません。
現行制度だからこそできているすばらしい保育があります。この保育を壊すのではなく、より豊かにしていきたい。娘の保育園を通じて、心からそう思います。

そもそも「経済成長戦略」から生まれてきた新システムの議論が、子どもの視点に立って行われないのは当然です。こんな土俵での議論をしていても良いものは生まれてきません。新システムが待機児童解消に繋がらないこと、待機児童解消のための施策が十分ありうることはすでに述べました。多くの主要な点について、ワーキングチームの議論が二転三転しているにもかかわらず、法案を何としても通そうというやり方は、単に「拙速」というだけではありません。私たちの保育制度を強奪しようとしていることを、きびしく批判せざるを得ません。(中略)
子どもと親の共育ちの場としての保育園の機能や、地域のなかで保育園の機能を、どう活かし発展させていくかということこそ、求められる議論の柱なのではないでしょうか。そのために、子どもの生存や成長・発達する権利をしっかり支えるという点に軸足をしっかりおいて、親、保育園、地域、時事タイヤ国が、それぞれのもつ社会的資源を出し合って、どうすればよりよい保育を創っていくことができるか。そんな議論にこのブックレットが役に立てばうれしいと思います。
子どもと保育が消えてゆく ~「子ども・子育て新システム」と保育破壊より








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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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