Archive for 10月 2010

「公共性」と「痩我慢」


繰り返し言うが、発生的に国家は私事にすぎない。
だが、誰かが「治国平天下」のために生きるということをおのれの規矩として引き受けるとき、その個人の実存によって、「私事としての国家」に一抹の公共性が点灯する。
国家というのは成立したはじめから公共的であるのではなく、その存続のために「痩我慢」をする人間が出てきたときにはじめて公共的なものに「繰り上がる」。
国家は即自的に公共的であるのではない。
私事としての国家のために、身銭を切る個人が出てきたときに公共的なものになるのである。
公共性を構築するのは個人の主体的な参与なのだ。
誤解して欲しくないが、「だからみんな国家のために滅私奉公しろ」というような偏差値の低い結論を導くために私はこんなことを書いているのではない。
「だからみんな・・・」というような恫喝をする人間は「国家が本質的には私事である」という福沢の前提をまったく理解できていない。
彼らは自分が何の関与もしなくても、公共物としての国家は存在し、存在し続けると思っている。
それは「誰か」が自分の手持ちのクレジットを吐き出して、公共性のために供与することによってしか動き出さないのである。
そのような「痩我慢」は純粋に自発的な、主体的な参与によってしか果たされない。
痩我慢というのは、徹底的に個人的なものである。
そして、福沢は行間においてさらににべもないことを言っている。
そのような「痩我慢」を担いうるのは例外的な傑物だけである。凡人にはそんな困難な仕事は要求してはならない。
というのは、凡人に我慢をさせるためには強制によるしかないからだ。
政治的恫喝であれ、イデオロギー的洗脳であれ、そのような外的強制による我慢には何の価値もない。
そのような不純なものによって「私事としての国家」が公共性を獲得するということはありえない。
現に、北朝鮮では国民的な規模で「我慢」が演じられている。だが、外的強制による「我慢」が全体化するほど、この国はますます公共性を失い、「私物」化している。
「こんなこと、ほんとうはしたくないのだけれど、やらないと罰されるからやる」というのはただの「我慢」である。
それは何も生み出さない。
「こんなこと、ほんとうはしたくないのだが、俺がやらないと誰もやらないようだから、俺がやるしかないか」という理由でやるのが「痩我慢」である。
それは「選ばれた人間」だけが引き受ける公共的責務である。


内田樹の研究室「公共性と痩我慢について」より

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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