Archive for 3月 2012

ぶとうの会7周年記念講演、高垣忠一郎先生(立命館大学)のメモ

ひきこもりの若者なんかは、この社会についていけない自分がだめな人間だと思っている。「この社会」で競争についていけない自分、敗者になってしまった自分、みんなは辛さを感じずにいきてるのに感じてる自分、またはみんなも感じて耐えているのに耐えられない自分が悪いと。

ある部分を否定をされたとき、それで自分がまるごと否定されると感じる人が多い。そういうシャワーを小さい頃から浴びてきている。「なんでこんなこともできない」だとか「こんなこともできなくてどうする」「世の中で生きていけないぞ」といった具合に。

人が道具と一緒になっている。ある働きがてきないだけで物は使い物にならなくなる。携帯電話も液晶が割れたらつかいものにならない。そんな感じで、ある部分が使えない人間は、人間性の全てが否定される。それは、人間教育が人材教育に変わってしまっていることに原因の一つがある。

教育が、企業にとって都合の良い人材の育成の場になっている。そして、それが子供達の行きづらさ、しんどさにつながっている。まして、競争社会では他人との比較がなされるというそんな中では私は私であって大丈夫という自己肯定感が持てない。

そういう人は、これをやったら周りの人はどう思うだろうかということばかり気になって、人の顔ばかり伺う子に育つ。

自己肯定感というのは評価の自己肯定感ではなく、許しの自己肯定感である。赤ちゃんがうんちをしたとき親は「よしよし」という。この「よしよし」は、「かまわないよ、うんちして迷惑だけど、よしよし」という意味が含まれている。何もできない赤ん坊でも「よしよし」だよ。ここで生きてていいんだという「よしよし」。赤ん坊は経済活動の観点からすると迷惑ばかりかける存在であり、非効率だが、大方の親にとってその子はがかけがえのない存在で、愛すべき存在である。人に対するこういう感覚が足りない。

子どもも大人も評価ばかりされている。「君の変わりは山ほどいる」と言われている。

痛んでいる子どもにどれだけ寄り添ってあげられるか。安心が植え付けられるかどうか。

そうして育ってきたなかで、かけがえのない自分なんていうのは一朝一夕ではできない。でも、一人一人がかけがえのないストーリーを持っていることは間違いない。

社会のシステムを変えて行くことが根本的な課題で小手先では難しい。共感し合える人間関係を作って行く中で自己肯定感を作っていく。

自立とは何か、フロイトは「大人になるということは働くことができるようになることと愛することができるようになることだ」といっている。今の日本は物質的に豊かになっていても、未成熟な社会でしかない。

人を愛することができるのは、まず自分を愛することができる人間でないとできない。

かけがえのない存在である。とりかえたくないと思う。この子と生きてられているのがとっても嬉しいという気持ち。それが子どもにつたわっておらず、自分は愛されていると感じさせてもらえていない。

子どもたちには、働くことばかりではなくて愛することを教えてあげないといけない。

「自分のしんどいことや辛いことを話すことは相手にとって迷惑だ」と今の子供達は考えている。「自分はそんなこと話すに値しない人間だ」と思っている。語る、それを聞いてあげる、受け止めてあげる、そんな話聞いてもらうに値するのか?と思っている中で聞いてあげる。こんな風に一生懸命聞いてもらえる人間なんだと自己肯定感を持てるようになる。

卒業にあたって、みんなへ。

みんなの中には、北星余市を卒業するにあたって「よし、俺は高校生活において世の中で生きていく術をすべて学んだから、自信満々、意気揚々と羽ばたいていくぞ」という人はいないだろうと思う。むしろ、不安を大なり小なり抱えていることと思う。

そんなみんなに案ずることはないと伝えたい。大丈夫、きっと素敵な生き方ができる。

例えば、北星余市の卒業生に関して「進学したが、途中でやめてしまった」という話を聴く。これは「短期的に見たとき、この道は違っていた」ということを示すだけのことであって、「失敗」とまでは言えない。人生は目的地を定めて歩く迷路のようなもので、ここに向かってこの道をだどったら行き止まりだったということを知るのも一つの経験である。その経験は目的地にたどり着くには遠回りだったかもしれないけれど、その行き止まりまでたどり着く中で得た経験というのが、その人の中に存在するようになる。場合によっては、それは目的地があいまい過ぎたからそうなった可能性もあって、そうやって行き止まりまでたどり着くことで、直前の位置に戻って、再び自分の目的地はこれで良いのだろうか…と再考することもできる。そして、その選択がのちに大きな意味を持つことがある。人生における出来事は、それを評価する人の価値観に基づいて、短期的な「成功」か「失敗」かを評価することができる。しかし、それは真の意味での「成功」か「失敗」かはわからない。長期的に見た時にはそれがいったい何につながるのかということは見えなくなる。

誤解を恐れずにいうと、きっと、みんなの多くは一般的な価値観とは違うものを持っていると思う。なぜなら、北星余市に来ているみんなは人より鋭い感覚を持っているからである。繊細な感覚といってもいい。加えて、それらの感覚にしたがって、実行に移す勇気も持っている。例えば、みんなから北星余市に来る前の話しを聞いていると「そうか、そういう出来事に対してそういう感じ方をするのか。自分の中学校時代にはなかったな」と思うこと、「なるほど、それは腹が立つ。自分も中学校時代に経験したことだ。しかし、自分にはそれに抗う勇気はなかった」と思うことがやまほどある。そういう感覚を持っている人が多い。そして、そのほとんどはしごくまっとうなのである。そういう感覚を持っているみんなは、色々な場面で人と違う見方のできる素質を持った人間なのである。みんなはそういう違う感覚と勇気と実行力を内に秘めている。これまでは、子どもという社会的に弱い立場であるとともに、その感覚を発揮する方法に制限があり、また間違いがあっただけのことである。北星余市では「ダメなことはダメ」と伝える一方、些細なことでも「イイことはイイ」とみんなに伝えてきた。我々は別にみんなに「大人という権威に従順な人間になってほしい」と思ってやってきたわけではない。「イイ子になってほしい」と思ってきたわけではない。その感覚と勇気と実行力を、適正な形で発揮するための術を身に着けてほしいと思ってきたのである。だから、あーでもないこーでもないと3年間言い続けてきたのである。北星余市で卒業をつかむことができたみんなは、そこのところ微妙な価値観の具合を、多種多様な経験を積んできたたくさんの人たちから学んでいる。しかも、それは社会生活を送るのに逸脱することのない価値観である。そんなみんなはいまさら世の中の一般的な価値観に無理に合わせて生きていく必要はない。

例えば、歴史に名を残している著名人のほとんどはそういったみんなに通ずるものを持っている。スティーブ・ジョブスだって、レディ・ガガだって、そういった人とは違う感覚を持っている人たちが、いつだって世界を大きく変えてきたのである。エリートは、今ある制度の中でそれをいかにまわしていくかということに関しては長けているが、そういった可能性においては、君らにかなわない。自信をもっていいと思う。別に、そんな歴史に名をはせる人間になってほしいといっているのではない。そういう人とは違う感覚が、みんなの武器になりうるのだと伝えたいのである。それほど、不安になることはない。勉強は後からでも追いつける。北星余市に存在していたように、みんなを理解してくれる人が必ずいる。世の中で生きていく力の土台は、ほとんどのみんながこの3年間で身に着けた。それをもとに、これからもたくさんの人の価値観に触れながらも、自分の感覚を信じ、成長目指していってほしい。焦らず、歩みを進めていってほしい。

自分の感覚が「これは大切にしたいことだ」と訴えかけてくるものを探し続けてほしいと思う。北星余市ではそれが見つけられなかった人も多いと思う。人にはタイミングというものがある。チャンスといってもいい。そのときが来るまで、探し続けてほしい。卒業してから、なんどもつまづくだろうし、うまくいかずにあきらめてしまいそうになるときもある。なきゃおかしい。でも、そんなとき、中学校に通えなかった自分が、何かをやり通したことのなかった自分が、苦しいことも多く、なんどやめようと思ったかしれない北星余市の3年間をやりとげ、そしてこの日を迎え抱いているその胸の中にあるものを思い出してほしい。探し続ければ、いつか見つかる。見つかる前にあきらめないでほしい。

北星余市でのつらく苦しい日々は「これをすることによって何が得られるのか」「この先に自分が望んでいたものが手に入れられるのか」といった焦りがそうさせている。人生は振り返ってみたときに初めてその意味がわかる。1年生のとき「こんなことをしていて何の意味があるかわからない」とたくさんのみんなが言っていた。みんなのそんな発言に対して、その通りだと思っていた。わかりっこないのである。しかし、今日この日を迎えたみんなの中で「やはり、退学しておけばよかった」と思う人はいないだろう。それはみんなの中にあった「卒業したい」という「大切にしたいこと」と過去の3年間に照らし合わせて、あのときの行動がこの日を迎えることにつながっていたということが見えたからである。だから、今日この日を迎えた意味だって、振り返って過去に照らせば「あの時の頑張りはこのためだったのか」とおぼろげに見えてくるが、将来に照らした時には「卒業したからって何の意味があるんだろう」と卒業の意味は見えないものとなる。「卒業したからって何の意味があるんだろう」という問いの答えは、これから年を取るごとに見えてくる。物事の意味は、未来に立ち至り振り返るまで本当の意味ではわからない。その意味がわかるまで、5年かかる人がいれば、10年かかる人もいるだろう。そして、その意味は未来のある時点までの自分の行動によって方向づけられていくのである。みんな自身がつくり上げているのである。それが生きていくということである。それが人生の楽しい所である。不安がる必要はない。そうして、自分でつくり上げていく人生を楽しんで生きていこう。

45期は1年生から3年生まで、3年間授業をもった学年である。やさしい子が多く、明るくも穏やかな学年だった。ここにいなくなるのはちょっとさみしいけど、元気で頑張ってほしい。いつも授業に行くのは楽しみだった。「えー、授業ヤルのぉ?」と必ずといっていいほど言われたけど。PTAのみなさんはとてもパワフルで北星余市を親身になって応援してくださった。感謝しております。これからも北星余市を応援していただければ幸いです。45期卒業生並びに父母のみなさま、ご卒業おめでとうございます。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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