Archive for 12月 2009

【特別に育てられた子供の行く先は?】
特殊支援教育への懸念


Photo by levindenboer

文部科学省が平成19年度から力を入れている「特殊支援教育」。それは「障害のある幼児児童生徒」に対して特別な教育を受けさせ、その子供のその持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服させることが目的という。




この「障害のある幼児児童生徒」の「障害」とは何を指すか。肢体不自由、弱視、難聴、知的障害をもった子供が特殊支援教育を受けることは今までもあった。それに加え、ここ近年は、自閉症、情緒障害、学習障害、注意欠陥多動性障害などといった診断を受けた子供も、この「障害」の枠の中に入るという。


これらLDやADHDのような症状を「障害」と見るかどうかは、ここでは抜きにして考える。しかし、こういった俗にいう「発達障害」を抱えている子供たちを「障害者」と見ることがどういうことにつながるのかを考える必要があると思う。


「人間はみな平等である」「差別は絶対に許されない」、そういう世界を目指すことは否定しない。そういう世の中になったらどれだけいいかと思う。ぜひ、そういう世界を築き上げたいと思う。しかし、現時点、実際の社会においては、理想とかけ離れた世界が展開されている。「障害」をもっているという事実をしったときに、差別感を持つ人は多い。差別という言い方が問題であれば、区別感といってもいい。人としての尊厳までを否定するものではないが、この人は普通の人よりもこういう部分で力が足りないのだという認識をもつ。そして、私はそれで当然だと思っている。


こういうことをいうと「けしからん考えだ!」とお怒りになられる方もいらっしゃるが、実際の世界はそうである。障害者手帳というものがなぜ存在するのかを考えたらわかるだろう。ほかの人たちと何の違いもないのであれば、障害者であることを証明する手帳はいらない。証明することで、福祉を享受する必要もないのである。


その人には、ある力が足りないという認識に立ったとき、その人は障害を抱えていると考える。障害を抱えていると認識すると、特別な支援を受ける必要があると考える。これが障害者手帳の考え方であり、それは特殊支援教育の原点にもつながる考え方である。こうして、障害者の烙印を持ち、特別な待遇を受けることによって、その人は特別な人として周囲に認識されてしまう。それがその子供の将来にどういう影響を及ぼすか。


「僕は小学校5年生でADHDと診断されて、中学・高校と特殊支援教育を受けてきました」と面接でどうどうと語って、それをよしとしてくれる世の中ならいい。けれど、現実は違う。




LDやADHDのような発達障害と呼ばれている子供を特別扱いする必要が本当にあるのか。そして、そういう子供たちを障害者として位置づけて特別な支援をして、教育していく必要があるのか。私には疑問である。20年前には一般には聞かれなかった言葉。現在50代の人たちの中には、明らかにその「障害」にあてはまるような症状を持っている人でも、立派に社会で成功されている方たちがたくさんいる。


「発達障害」を重度に抱えている子供にはそういう支援も必要なのかもしれない。けれど、あれもこれもそれもどれも、LDじゃないか、ADHDじゃないか、アスペじゃないか、、、、そんな風潮のある今の日本で、そういうものを抱えた子供を特別扱いすることは、その子供の未来をつぶしてしまう可能性があるということも考えておく必要がある。


その子の個性、ぐらいがちょうどいい。そう思うのである。

【人間関係のつまづき】
不登校になる理由

毎年文部科学省で作成されている、「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」。2008年度(平成20年度版)の結果が、小学校と中学校の不登校に関する部分のみ2009年8月6日に公表されてます。


http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/21/08/1282877.htm




私は仕事柄、毎年この資料を斜め読みするのですが、相も変わらず不登校の原因となっているのは「人間関係によるつまづき」ですね。上位の2位~5位は家庭環境やらなにやら、直接人間関係によるつまづきに起因するものではないのですが、実は5位以下と1位を考えると、それが何らかの形での人間関係によるつまづきであり、「人間関係のつまづき」として、それらを足してひとくくりにするとダントツの1位になる。


Photo by alicepopkorn




学校に通えなくなる理由の大半が「人間関係」によるものだという認識をした時、僕がその子供たちにつけてあげたい力は、だからこそ「人間関係を切り結ぶ力」というふうに思うのです。

【教師だけでは教育はできない】
互いに手を取り合うことが、子供の豊かな成長につながる


Photo by WTL photos

教師だけでは教育はできないと思っています。家庭、地域が一体となって、はじめて実り豊かな教育を展開できる。「家庭での躾がしっかりしていない、だからこんなこともできない子どもが学校に来るんだ」なんてことを言ったって始まらないんじゃないか。一方で「学校なんて勉強も中途半端、塾の方がまし。かといって、生活指導もしっかりしてくれるわけじゃない」なんてことをいっても意味がないんじゃないか。そう思います。それは、お互いが果たすべき責任とその責任を果たしていないことを非難し合うだけのやりとりにすぎなくて、そこには子供の姿が見えないような気がします。


教育は分業作業ではいけないと思います。工場の流れ作業のように、ある人はここを担い、別の人がここを担う、そしてその担当部署以外は関係がないという形態でなされることは、決してあってはならない。内田樹先生の「街場の教育論」に、この分業の危うさに関する記述があるのですが、これを読んだとき、まさにそういう危うさが今の教育にあると感じました。


教師への苦言、家庭への苦言、それはある種の期待ともいえるものではないかと、私は思います。それぞれがそれぞれに耳を貸し、互いに協力し合い、至らぬ点を支えあって、全体的な教育力を高めていく。それは、その子供にとって、足し算ではなく、掛け算の効果を生むことになります。僕の経験では、そうです。


北星余市高校の教育は、まさしくそれが体をなしている。


担任をしているとき、父さん・母さんにお願いすることは、やまほどあります。生徒の身近にいる大人の人にお願いすることも、その問題を乗り越えた先輩や友達にお願いすることもやまほどあります。逆に、お願いされることも多々ある。教師としての経験上、聞き入れることができないことがある場合は、きっちりとその理由も含めて説明して理解してもらい、別の手段を一緒に模索することもありますが、なるほど!と教師の視点からでは見えない、その子供にとって良い方策が与えられることのほうが、もっとたくさんあります。そうして、手を取り合って、一人の子供に向き合う。


それは、子供たちの豊かな成長に導く、最善の方法だと思うのです。

【Live Act Against Aids in YOICHI】
道立余市高校との合同イベントが開催されました


今日、余市町公民館で道立余市高校との共催で"Live Act Against Aids in YOICHI"なる合同イベントを催しました。11月に企画が持ち上がってから1ヶ月間、生徒たちの着実な準備と道立余市高校の先生のご尽力によって、このイベントが成功しました。当初、軽音部顧問である私のところにお話がきて、仕事を分担してやっていくはずだったのが、リハーサルや当日も含めほとんど余市高校の先生に任せっきりになってしまい、申し訳ないことをしました。が、おかげ様で、北星余市の生徒も総勢40名以上が参加し、スポーツ大会の翌日にも関わらず、たくさんの笑顔と学校外の方に向けたイベントを体験させることができました。本当にありがとうございました。


北星余市からは、YOSAKOIソーランやアカペラ、バンド演奏、パラパラで出し物をし、北星余市と道立余市高校のピアサポーターがエイズの予防と正しい認識の啓蒙するための演劇を交えたスライドショーを行いました。


学校内での行事は、北星余市の学校教育において1か月に一度のペースで用意されており、それを一つの糧にして生徒たちは成長していくのですが、こういった学校外でイベントを行うということが、また違った側面での生徒の成長を生みだすと思うわけです。北星余市内での常識が外で通用するのかどうか、北星余市ではあたりまえのことが外ではあたりまえでない現実があったり。また、外の人たちとかかわることで自分たちの良さというものも見えてきます。それは外の人と自分たちを比べて優劣をつける、どっちが上かとかそういう下品な話ではなく、自分たちを見つめ、自分たちを再認識する効果をおのずと生む。こういう機会がほとんどない状況なので、生徒たちにとって本当に良い経験になったと思います。


ご来場くださった皆さん、ありがとうございました。準備に尽力された方々、お疲れ様でした。そしてありがとうございました。

【教師はただの人間】
一人で教育をするには限界がある


Photo by Brandon Godfrey

教師は集団でもって機能する。チームプレーがとても大切です。一人で教育を営むことのできる人間は、存在しないと僕は思っています。こういう話をすると「いるじゃないか、カリスマ教師が」といわれることもありますが、あれは私からすると教育であっても、教育の中のほんの一部ができているだけのことなんです。ひとつの方向性を向いて、教師が集団となってそのことに取り組む。生徒の活動を発展させる動きであっても、生徒が起こす問題行動への対処にだって、それは集団に対してだって、個人に対してだって、そのことはとても大切なんです。
 一昔前は、教師は一目置かれていました。僕の母親の世代は、先生と言えば絶対的に正しい存在であり、「今日、先生に殴られた」と祖母に報告したら「あんた、なにやったのさ」と無条件に先生が正しいことが前提となっていたといいます。昔は、社会的にそうだった。母親は戦後の団塊の世代の人間で、戦前の名残もあったのでしょうけれど、社会全体的に先生は正しいものという考え方があった。そういう支えがあったから、教師一人一人の力は保障されていたのだと思います。もちろん、戦前の教師たちの中には、しっかりとした思想の持ち主が多かったこともあるでしょうけれど。その思想が良いか悪いか、自らのものかどうかは別として。


今の時代、つまり価値観がこれだけ多様化し、ややもすれば「人様に迷惑さえかけなければ私は何をやっても良い」という言い分に、何も言い返せなくなるような、それほど価値観が多様化している世の中においては、教師は教育理念のもとに一致団結してそこに向き合う必要が、特にあると思います。


それができていないとき、たくさんの弊害が起きてくるのだと私は思うのです。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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