Archive for 8月 2013

「好きなことを見つけなさい」の前に。

好きなことを見つけなさい。やりがいのあることを見つけなさい。興味のあることを見つけなさい。

そういう言葉があまりにもあふれている。

言いたいことはわかる。本当に好きなことを見つけ、そこに価値を見いだし生きている人には、輝いている人が多い。

しかし、子供達に安易にその言葉を浴びせる大人を私は信用しない。そういう大人の中 には、子供達に「好きなものを見つけられない自分はダメな自分だ」という強迫観念しか与えず、じゃぁ、どうすれば好きなことが見つかるのかといったことを一切与えることのない人が多い。

スポーツを全くしたことのない人間にいくつもの種類のスポーツの動画を見せて、この中から好きなスポーツを選びなさいといったって選ぶことはできないだろう。ゲームを全くしない人に対して、おもちゃ屋さんで、あなたの好きなゲームをなんでもいいから選んで下さいといったって、選ぶことはできないだろう。

それは大人であろうが、子供であろうが、そうである。

好きなこと、やりがいのあること、興味のあることというのは、全てその人の経験値にもとづいてはじき出される事柄である。

だから、経験値の少ない子供にそんなことをいっても無意味なのだと思う。

幼少期の頃は、ケーキ屋さんになりたい、おまわりさんになりたいと子供達は夢に期待を膨らます。しかし、ある一定の年齢になり、知識が増えていくに従って、そういった夢は儚くも消え去っていく。そして、そんな子供達に大人は「好きなことをみつけなさい」「興味のあることをみつけなさい」というシャワーを、焦ったかのように浴びせる。

僕は、そんなことを呪文のように唱えている暇があるならば、子供達に豊かな経験をさせてあげた方がよっぽどいいと思う。寄り添って、子供たちと色んな経験を大人自身もした方が良い。きっと、その経験の積み重ねが、わき上がるものを育ててくれるのだと思う。

子供たちに「好きなことを見つけなさい」というより先に、自分は仕事で忙しい、家事で、育児で忙しいといって、子供たちに寄り添うことなく豊かな経験をさせてあげることなく、呪文のように唱えている自分をまず見直す方が先なのかもしれない。

学びと育ちが子供達に必要なんだと思う。

子供達に必要なこと。それは、学びと育ちである。

学びと育ちは色々な形で表れて来るが、その底流に流れているものは、自分が何者であるのかということの一端を、ある一定程度見いだすことのできる経験をしているかどうかだと思う。
経験をすることというのは、言い換えれば、体で理解することであり心で感じること。これなしに教科書に書かれていることを、ただひたすら頭の中に詰め込んでも、それが活かされることはないだろう。

だから、高卒の資格だけを取得することだけを目標にした高校時代を過ごすことは、とんでもないことだと私は思っている。

簿記2級の資格試験は年に3回行われており、毎回1万人〜2万人の範囲内で合格者が出ている。私たちはまるで資格があればそれで社会で自立して生活していくことが出来る、食べていくことが出来るかのような幻想を抱いている人がいるが、それは大間違いである。子供達を資格ブームに乗せて一安心しているのは大間違いだ。それらは人格がある一定育っている人にとって、ある程度有効な武器となるものであって、それがあれば安心ということはない。まして、メディアに取り上げられる資格なんかは、そこに群がる人であふれかえり「ない人よりまし」なだけである。

『僕は君たちに武器を配りたい』という本を書いている著者・瀧本哲史氏は、この資本主義社会においていかにして生きていくべきかをこの本で説いている。私は昨今の原理的すぎる資本主義社会に嫌気がさしていて、この本もその土俵で書かれている。しかし、瀧本氏はとても大切なことを書いていると思う。

経済学には「コモディティ化」という言葉があるそうだ。コモディティとはもともと「日用品」を指す。市場に出回っている商品が個性を失ってしまい、消費者にとってみればメーカーのどの商品を買っても大差がない状態をいう。まさに、私たちの周りにあふれるものそのほとんどがコモディティ化されているといえる。スペックが明確に定義できるもの、材質、重さ、大きさ、数量など数値や言葉ではっきり定義できるもの、つまり個性のないものは全てコモディティ。それはどんなにそのものが優れていても、スペックが明確に定義でき、同じ商品を売る複数の供給者がいればコモディティというのだ。

資本主義においては、需要と供給が経済活動のベースとなる。その結果、コモディティ化した市場では、恒常的に商品が余っている状態となり、同じ質であるなら安いものが求められる。つまり、徹底的に買いたたかれるということである。

弁護士の資格をとったって、簿記2級の資格をとったって、資格を持っている人がたくさんいればコモディティ化は成立する。企業は、業務マニュアルが存在し「このとおりに作業できる人であれば誰でも良い」と思っている。だから、どんなに資格を持っていても、同じ資格を持っている人が多ければ、あとは安く雇える人を雇うだけ。そうして、今、国学歴ワーキングプアと呼ばれる人がわんさかあふれている。

このとき同じ資格を持っていても他にはないものを持つ人、つまりそのコモディティ化の流れから抜け出すことの出来る人間というのは、他の人には代えられない唯一の人間になるということ。瀧本氏はこれをスペシャリティになることという。

私はこの唯一の人間という言葉を、個性に置き換える。唯一の自分を磨く方法というのは、個性を育てるということだろう。それは、自らの経験にもとづいた学びと育ちから見いだされることだろうと思う。少なくとも教科書には載っていない事柄だと思う。

知識を身につけること、試験で点数をとること、資格を取ること、こういったことも大切だろう。しかし、それを下支えする人格形成が、今、とても軽んじられていると私は思う。






2013年度の学校案内パンフレットが完成。

やっとできた。2013年度の北星余市のパンフレット。僕が創ったわけではないけれど。

毎年、夏に出来上がる学校ってそうそうないみたい。ほとんどの高校が年度始めに作られる。もう、年が明けたら次年度の入試に向けて勝負ってことなんだろう。

北星余市は、今いる子供達の輝きをみんなに見てほしいから、入試のシーズンが来るギリギリまで子供達の写真を撮りためて、なんとか夏にお披露目できるようにしてる。

いろんな学校のパンフレットを見ると、カリキュラムや取組みや高校卒業後の進路や資格取得や面白そうな仕掛けを載せている学校が多い。なんとなく分かりやすくて違和感を感じる。パンフレットにはいいことが書かれている。「こんないいものが用意されています」ってずらーっと並んでいて、それを読む子供たちや親御さんは、そのガラス越しに未来の姿を見るわけだけれども、本当にそうなのかな?って思う。

ここに映っているのは、まぎれもなく北星余市の生徒達。いつも思うのは、この顔はこの空間で生まれている生きている子供達の本物の顔だということ。

手前味噌だけど、ほんと、いい顔するんだよなぁ。この子ら。このとき、何を考えてるのかな?と見入ってしまう。


学園の職員研修会で感じたこと。

今日は年に1回行われる北星学園の職員研修会の日だった。中学・高校3校・大学をもつ北星学園が総合的に力を発揮していくためにはどうしたらよいのか、各校10分ずつそんなお題で話すセクションがあり、私もお話をさせていただく機会をもった。

私が話した趣旨の概略は、
○総合的に力を発揮するということは、各校の良さ、教職員一人一人の良さを有機的につなげて、学生生徒のため良いものを作り上げていくこと
○フロアの一人一人が意識を持って進めていく必要があるということ
○北星余市はその中で何が出来るのかということ
○北星余市は何をしてほしいのかということ
だった。

このセクションの話を聞く中で、何度も何度も教育が資本主義経済に絡めとられていると感じる場面に出くわした。私の吐いた言葉は青臭い言葉にしかならなかったと思う。その青臭い言葉をはいた僕にこっそりと寄ってきて話をしてくれた先生もいた。話を進めていく中で、本当はそういう青臭い言葉を大切だと思っている先生もいた。けれど、大方の流れ、表面上の流れはそうでない方向に流れている。

時勢なのか。教育とはそういうものだっけかなぁ、と思う瞬間が多くあった一日だった。

第18回 登校拒否・不登校問題 全国のつどい in 北海道に参加してきた。

毎年行われている全国のつどい。今年は帯広でやるというので、1ヶ月に1度、12月から実行委員会にも参加してきた。地元、帯広のはるにれの会が事務局をやってたけど、本当に大変そうだった。

去年の奈良、一昨年の長崎と参加してきたが、色々な経験、思い、考え方を持った人が参加して来る。仲間、経験、再会、救い、癒し、学び、色々なことをそれぞれが求めて参加して来る。この出会いが自分の視野を広げてくれることは間違いない。素敵な人との出会いもあった。そうか、そうだよなと気づきも多い。

ただ、なんとなく、難しいなぁ…と感じる瞬間がある。僕が勝手に感じていることなのかもしれないけれど、困難があるんだよな。自分の中に。

法の溝、制度の溝、人の溝。

親権。

民法第820条には
「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」
とある。

けれど、子の利益のために子の監護及び教育をしていない人がいる。中には子の利益どころか、親の利益のためにしている人もいる。そういう人が親権を持ち、子供を手放さないことで、その子供がかごの中の鳥になっている例が世の中にある。

民法第834条には、
「父又は母による虐待又は悪意の遺棄があるときその他父又は母による親権の行使が著しく困難又は不適当であることにより子の利益を著しく害するときは、家庭裁判所は、子、その親族、未成年後見人、未成年後見監督人又は検察官の請求により、その父又は母について、親権喪失の審判をすることができる。」
とある。けど、だれが後見するのかということも問題になって来る。「親権の行使が著しく困難又は不適当であることにより子の利益を著しく害する」ことを証明することも難しいし、できても相当の時間がかかる。

狭い世界しか知らない僕でも、2人もの子供の例がある。世の中にはもっとたくさんのそういう子供がいる。とても心苦しい生を送っているのだろうなと思う。

でも、笑顔だったんだよな、あの子。緊張が体に表れていたけれど、笑顔だった。

なんとかならないものかな。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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