Archive for 2015

不登校を予防すること

とある行政の方に「いじめにあった、教師に心ない言葉を言われたという明確な理由による不登校は別として、なんでかよくわからないけれど、不登校になってしまったという子どもが多い。これをなくすにはどうしたら良いと思うか」と質問された。

「すごい質問をされるなぁ」と思いながら、よくわかるその人の思いを受け止める。不登校に陥った子どもも親も悩み苦しむ。「そんなもの、世の中からなくなってしまえ!!」という祈りからくるんだろうと思う。その祈り、理解はできる。

質問した方は、不登校を経験した子どもたちを沢山受け入れて来た経験のある北星余市の教員だから、何か魔法のような解決方法があると思ってくれたのかな。でも、そんなものがあれば、全国で10万人以上いる不登校問題はとっくに解決している。

「不登校を予防するにはどうしたらいいか?」という問いを考えると、端的に「予め行きたくないと思う出来事をなくし、行きたいと思う学校にする」という答えになる。

けど、そんな単純な話でもない。

そもそも学校に行かないという選択をする子、行きたくても行けなくなる子には、その子独自の様々な要素が絡んで、そういう状況が生まれている。学校教育制度、学校教育環境、社会状況、地域の特性もあるし、その子の生育歴、育って来た環境、偶発的な出来後、、、そういった様々な要素が絡んで不登校が生まれている。そういったことを考えたとき「よくわからない理由で学校に来ないという現象をどうすれば予防できるか」という問いに具体性をもちつつ一般論として応えること、マニュアル化することは難しい。

まずは、そういう自覚を持つことから。そこからスタートなんじゃないかな。

いうことをきかない子どもたち。そもそも、いうことをきかそうというのが間違っている?

ふとノートを見返していたら、気になるメモを見つけました。「非行」を考える全国交流集会でのメモです。「非行」を考える、、、っていうか、人ってものを考えさせてもらえます。毎度のことながら。

今日は「なんとかしようとすればするほど、自分の首を絞めてしまう」というお話。

この集会では、子どもが「非行」をしていて、悩んでいる真っ最中の親御さんたちだけでなく、その悩みがある一定解消されて、悩まれている親御さんたちを当事者の立場から支えようとされている方たちも多く参加されているんですね。

そんな先輩ともいえる方たちがこんな発言をされていたんですよ。

  • 子どもがやりたくないと思っていることを続けさせてしまっていた。
  • 自分が学歴主義に捕らわれてしまっていた。その路線に子どもを乗せようとしてしまっていた。
  • 「この人はこういう人だ」「あの人はこういう人だ」と自分の生きてきた価値観で人を決めつけて見てしまっていた。「あなたはこう生きねばならない」と子どもに自分の価値観を押し付けてしまっていた。今となってはその価値観はとても狭いものだったと思う。
  • 子どもは子ども、私は私。でも、家族だから見捨てない。そう思えるようになってから、子どもとの関係性が変わっていった気がする。

そして、その話を聞いていた、山梨県笛吹市で不登校の親の会「ぶどうの会」をされている鈴木さんがこんな感想を話されたんです。

「なんとかできないか、なんとかする方法はないか…と足掻いているうちは良い方向にいかず、子どもは子ども…私は私…と親自身が変わると、意外となんとかなることが多いのは不登校も一緒。ああ、やっぱり共通しているんだなぁ、、、って思いました」

これって価値観の違いからくる話なんだろうなと思うんです。親と子の。というか、人と人の。

自分では何もできず、判断基準もなくて、与えられたものを享受しながら、感じ、考え、成長していくのが人の育ちのはじまりですよね。そうして生きていけば、自分の感性や価値観が育って考えるようになる。そうすると自分の意見を持つようになる。おかしいものをおかしいと思うようになる。自分が正しいと考えるものができる。実際に正しいかどうかは別として。

これって、子供に限らず、大人もそうですよね。誰もが新人の頃は上司の指示を受けたり、先輩のアドバイスを受けて、不安も抱えつつ、考えながら、一つ一つをこなしながら前に進んでいく。一つクリアするごとに、感じるものがあるし、考えることが出てくる。一生懸命そこに向き合えば向き合うほど、気がつけば「自分」を持つようになってる。それに似ている気がします。っていうか、人の育ちってそういうもんなんだろうと思います。

そう考えた時「親だから子どもにいうことをきかそう」っていう、つまり無条件に「従わせようとすること」は、自ら感じ、考え、行動する人間に対しては、不可能なことなんだと思います。自分が感じて、考えて、納得が得られないと行動はしないし、行動を止めないでしょう。

一概には言えない色々な理由で、このような状態になってしまったら、それはもう相手の価値観を尊重する以外はないのかもしれません。「じゃぁ、やってみなよ」っていう。

ただ、何もしないで「やってみなよ」じゃない。一方で「僕はこう思うけどね・・・」という姿勢も保つ必要があって、これがあるから、失敗しても気づきがあるというか。はじめての道、目的地までたどり着くのに、自分が決めた道を進んだけどそこが行き止まりだったとき、「そういえば、あの交差点にたったとき、「こっちだと思うよ」と言ってくれた人がいたっけ・・・」という出来事があったかなかったかは、大きな違いになると思うんですよね。









「教え子に私的メールやLINEダメ?…15県教委で禁止」これやられたら、うちの学校では教育はできませんね。

全く意味がわからない。驚き桃の木山椒の木、ブリキにタヌキに洗濯機並みの支離滅裂さ。
教え子に私的メールやLINEダメ?…15県教委で禁止 
教え子へのわいせつ行為で処分される教員が後を絶たない中、生徒との私的なメールのやりとりを禁止する教育委員会が相次いでいる。47都道府県のうち、15県教委が禁止していることが朝日新聞の調べでわかった。
 調査は2月、教員と生徒間のメールや、「LINE」などのサービスを使った私的なやりとりを禁止しているかを、都道府県教委に尋ねた。3割強の15県教委が、通知などで原則禁止していると回答したほか、20以上の教委で私的なメールをしないよう研修で指導したり、注意を呼びかけたりしていた。
 各教委が私的メールに神経をとがらせるのは、やりとりが続くと、女子生徒に対するわいせつ行為に発展する場合があるからだ。http://www.asahi.com/articles/ASH2S7GR6H2SOHGB01K.htmlより

2002年あたりからわいせつ行為で処分を受けた教員は150名から200名の間を行ったり来たりすれ違い。もうかれこれ10年以上経っている。私的なやりとりを禁止したからって防げるものでなかろうに。

というか、そもそも「私的」ってなんだ?個人的に関わることか?公でないことか?プライベートか?てか、個人的ってなんだ?公って、プライベートってなんだ?子供の人生に関わる営みにおいて、そんなこと考えたこともない。

自分が子どもたちに向き合うときを考えると、個人的に関わることだって、公でない場での公でないこと、プライベートでのやりとりだって、山ほどあるぞ?僕も含めてだけど北星余市の先生達なんて、生徒の寮下宿を訪問して、生徒の部屋で一対一で『お話しホーダイ』ですよ。制限を設けた環境において解決される問題ではなく、教師としての資質の問題でしょう。しつこいようだけど、逆に生徒との信頼関係を作る上で、公的だとか私的だとか考えたこともない。そんなこと関係なく人として関係を築き上げていかないと信頼関係なんてできないもの。そんな制限作られてしまったら、たまったもんじゃない。なまくらで戦えっこない。

問題は公的か私的かの区別ではなく、メールやLINEという手段の問題でもなく、教え子へのわいせつ行為をはたら人格であって、それをどうするかが問題でしょう。そもそも、教え子を性の対象としてみること自体、教育をなんと心得ているか、、、って問題だと思うんですよ。自分の一挙手一投足が、一人の人間の人生を左右する可能性があるのだという自覚が足りない。個人的なやり取りを禁止するとか、LINEやメールはダメ!とかいうのもいいけれど、そんな教育者としての「いろは」の「い」を普段から教師集団として共有することから始めた方が良いのではないでしょうか。






5年ぶりの再会。

「非行」を考える全国交流集会が終わって、帰ろうとしていた時、会場から出たところで一人の若者に声をかけられた。

「北星余市の田中先生ですよね?」

は?はぁ、いかにも?だが、、、ん、、、あなたはだれ?

わからないので率直に聞いてみたら、なんとその若者、5年ほど前に北星余市に学校見学に来たことがあって、僕が対応していたのだそう。

当時は自由奔放な生活を送っていて、親にもいろんな人にも迷惑をかけていたらしい。地元には置いとけないと思った親御さんが、必死の思いで北星余市に連れてきたんだって。本人は「旅行に行こう」とだけ誘われてついていったら、学校にいたとか、笑。

その学校見学の際に、僕が対応したことを覚えてくれていて、なんだか嬉しい。なんで覚えてたんだろう。

その頃はまだ遊ぶのが楽しくって入学にはつながらなかったけれど、それから2年くらい自由奔放な生活を続けて、失敗もして「ああ、これじゃあかんな」と一念発起して、勉強したんだと。今は、早稲田大学に入って、大学生やっていると。なんと、やっぱりエネルギーあるよな、そういう子って。やるときゃやる根性があるんだよね。すごいと思う。

今は少しでも自分の経験が役に立てられれば・・・と思ってforpassっていう、自身の経験を書いたサイトを開いたり、こういう場に出てきているんだとか。その考えもまた立派。

なんか、そういうどこで縁があるかわからない、こういうのっていいよね。

なんて思った「非行」を考える全国交流集会の終わりでした。

教育活動は、わからないことだらけだけど、わかりやすいたったひとつのことがある。

教育という営みは、本当によくわかりません。今、ここでやっていることが、いったい何になるの?って感じです。教師やって15年経ちますが、未だにその感覚は抜けません。

「教育」を大辞林で引っ張ってみると、
「他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。」
 って書いています。

この「望ましい方向」とはいったいなんなの?これを見定めるのは本当に大変なこと。

そして、例え「これが望ましい方向だ」と定めたとしても、その方向へ導く際の方法に、正解というものがない。

「この言葉をかけてあげたら、この子は、必ずこの方向に進んでいく」そんなマニュアルのような、公式のようなものはない。

「意図的な働きかけを行うことによって」と書いてあるけど、例えば、応援することを意図として「がんばれよ」と言葉をかけても、その時の状況や、それまでに育ってきた環境や経験、その言葉を発する人間との関係はもちろん、その言葉を発する人間のそのときの口調や場合によっては天気によっても、言われた側がどう受け取り、それがその後、どう影響していくかなんて言うのは、大きく変わってくる。

もっといえば、「がんばれよ」と言われた人間が、例えばそのとき気分を害したとしても、その次の瞬間に、何かがひらめいたりして、前向きに考えることだってある。

自分の身に置き換えて考えたとき、だれでも体験した事があることだと思います。

「なんだかわからないけど、小学校から学校に行っていなかった子供がこんなに輝くようになった」

「あれだけ世の中に背を向けていた子供がこんなに世の中に向き合うようになった」

私の学校にはそんな事例は腐るほどあるけど「何をしたら、そうなったの?」と聞かれると、ひとつひとつは説明できない。

一人の人間が、高校時代の24時間365日×3年をどう過ごしたか、もっといえば、うちの学校にたどり着くまでの十数年、二十年近くの時間をどう過ごしたかが複雑に絡み合っていることなので当然ですよね。

いつどこで誰とどんな出来事があって、それまでの過程はこうで、どんな些細な言葉だって、場面だって、人を変える可能性がある。その一つ一つ積み重ねられたものの上に、その人の今があるわけで、それを具体的に説明しきることは、不可能と言っても過言じゃない。

そう考えたら、教育という営みは、すべてを言葉で説明しきることのできない、いや、むしろそのほとんどを言葉で説明することが困難なものなのかもしれないなぁ、と思います。

ただね、ひとつ間違いなくいえるのは「人の思いというのは必ずいつかどこかで花開く」ということ。

とふと思った今日でした。

子どもを支える立場の人間が結んだらいい関係

「私は、子どもがなにか問題を起こしたとき、学校が子どもに理不尽と思える対応をしていても、言いたいことが言えなかったんです」とおっしゃっている親御さんがいました。

いやぁ、親は、そりゃそうなるよね・・・と思うと同時に、なんなんだ?その仕組みは・・・と思ったわけです。

どうも、学校の先生って上からになりがちだよね。いや、学校の先生だけじゃないかな。

親御さんや本人が「いやー、悪いのはこっちだけどさぁ、だからってそれ理不尽じゃね?」って思うことって、意外と要求している側は理不尽だと思っていないんだよね。本気で「おまえ、それくらいしろよ!」って思ってる。「悪いことしたんだからさ」って。

そういう状態って、結局、何も生まないことが多い。だって、理解し合えていないもの。「しゃーねーから、こなすわ」ってなるか「こっちも問題だけど、そっちも問題だろ?」くらいにしかならない。

たぶん、教員、、、いや、子どもの育ちに関わることを生業としている人間は、「立場」という役割分担をしながら、ともに育てていくんだという感覚を持つべきなんだろうな。

「母さん、困ったね〜、どうしようか〜」って一緒に頭付き合わせて悩めるくらいの姿勢。「専門性」っていう武器をもってして、自分が指導すべき立場って奢ってしまうと、見過ごしちゃいそう。

教師のそれが「専門性」だとすれば、10数年子どもを育ててきた親御さんのそれだって「専門性」だわな、親っていう。その他の「業」として子どもに関わる人もそう。でも、どれもその立場によったもので、片手落ちなんだよ。狭い世界でしかない。

僕らは、自分以外の教師たち、親、寮の管理人さん、その子の友達、先輩、後輩が、その子をどう見ているかってことを僕らは知りながら「じゃぁ、どうしようか?」って考えている。

だから、親御さんに要求するというより、一緒に「また、やっちゃいましたねぇ〜、いやぁ、、、どうしましょ?僕らは、学校で見てたら、こうだと思うんですよ」って考える事が多い気がするな。そうやって、理解しあって、協力しあって、一人の子どもを見ていくっていう感覚って、大切なんだなぁ、と。

「悪さ」をしているという感覚はない 〜 「非行」を考える全国交流集会

それと、昨日の分散会でNOCA!のアリーさんが言っていた言葉。

「悪さをしているときも、悪さ感がないんですよね」

これ、とても興味深い発言だと思うんですよ。

実はこんなことは、アリーさんだけじゃなくて、僕らの知っているセカンドチャンス!のみなさんも同じようなこと言ってたんですね。全く、別の場で。ってか、飲み会で。

セカンドチャンス!の方達は、
「遊びの延長でしかないんですよ」ともいってました。
「楽しいか楽しくないかなんですよねー」って。

そう考えると、とても納得のいくことがあるんです。
それは「僕は悪いことをしたので、悪いことはもうしません」といってその行動をやめる子ってほとんどいないんですよ。実は。

そうすると反省させると犯罪者になります/岡本茂樹 これは子育てのバイブルだと思う。で書いたこと、この書籍に書いていることも俄然真理的なことをいっているんじゃないかって思えてきます。

  • 嫁さんができたから
  • 子どもができたから
  • 周りが真面目に働き出したから
  • 親がとても悲しんでいる姿を見たから
  • 自分を心配してくれる人に出会ったから
  • 何回も少年院に入っている時間が勿体無いと思ったから
  • 別の楽しみを見つけたから
  • その世界に疲れたから
  • 新しい生き方が見つかったから

などなどなど

僕が学校で出会った子どもたちも、こうしてつながりで出会った人たちも、よく考えてみたら誰一人として「悪いことをしたから」そういうことをやめたという人はいない。

人に迷惑をかけておいて、悪いことをしたと感じていないなんて、けしからん!

と怒るのは勝手ですけど、ひょっとしてそれはその人の価値観でしかなくて、そういう行動をする人はそうは感じていないものは感じていないので、いつまでもそんなことを言っていても(いってもいいですけど)、仕方がないような気がします。

僕らの学校でも問題が起きた時に「おまえ、そんな悪いことをしてどう考えているんだ?」「悪いことをしたんだから、反省しろ」と迫っても、「すみませんでした」という言葉はひねり出させることができても、本質的な部分に迫ることはできないですもんね。だって、感じ方が違うんだから。「こんな良いもの、なんでわからんのだ?」「え、だって良いと思わないもん、僕」ってのと質的には一緒。感じているもんが違うんですよ。

「悪い」ということを理解させようとばかりして、本質的な部分に迫ることができなければ、人は結局同じ行動をする。

「悪いことをして!」という発想から脱却することは、我々にとって大きな一歩なのかもしれないです。


「立ち直る」という感覚 〜 「非行」を考える全国交流集会にて

今日は千葉県柏市で開催されている「非行」を考える全国交流集会に参加しています。
これで4度目でしょうかね。

16:00頃からの分散会で、NOCA!のアリーさんとご一緒することができました。

司会の方の「立ち直ったきっかけはなんですか?」という問いに、アリーさんは「立ち直ったという感覚はない」という。うんうん、やっぱりそういう感じ方ですよね。


  • 「非行」(そもそも「非行」ってなんなの?)をしなくなること
  • 周りに迷惑をかけなくなること
  • 人の気持ちを考えられるようになること


例えばこんなことをもって、「立ち直った」とか我々は表現しがちだけど、ちょっと違うと思うんですよ。感覚が。

これ「もともとはいい子だった。世間の流れに乗っていた子だった。けれど、何かのきっかけで道を外れてしまった。悪い子になってしまった。けれど、良い子に戻った。流れに戻った」という発想だと思うんですよね。

もちろん、そういう子もいると思うんだけど、大半は人が変わるわけではないので「そういう自分」も含めた今の自分という結果でしかないんじゃないかと。

そうそう、そう考えてみたら、僕らの学校でも「あの子、成長したね!」ということはあっても、「あの子、立ち直ったね!」という言い方はしないもんな。

過去の自分があって、今の自分がある。生きるって、そういうことだと思うんだよな。

「非行」をしている子を抱えている親御さんが悩むのは当然なんだけど、その悩みを増大させている一つの要素は「この子を元に戻さなければならない」という発想なんじゃないかな、と考えてみた今日の分散会でした。



コミ茶で「居場所」を考える会 〜 幅の広さをもつ

今日は夕方からNPO法人余市教育福祉村の宮井さんのお誘いで「居場所」を考える集りに参加してきた。

場所はコミュニティ茶屋
漂流教室の山田さんやひね塾の伊藤さんなど10名くらい集まってとりとめもなく「居場所」談義。

発端は小樽でフリースクールを始めたらどうかなぁ、、、と思っていらっしゃる方や、インターネット上でフリースクール的なことできないかなぁ、、、と考えていらっしゃる方を囲んで語れたらなぁ、、ということだったけど、集まったら結果的には「こういう集り、またやりたいね」という感じの会になった。

集りとは全然関係ないけど、ほんと、漂流教室の相馬さんもそうだし、山田さんも、面白いものの見方をしている人で大好き。

さておき。

今日ぼんやりと感じたのは、実は何をやっているのか明確だけど、一見明確じゃないような「人が集う場所」というのは、実は世の中の困りに対して、救いの要素を含んでいる場所なんだろうということ。

フリースクール、障害者支援、若者支援、親の会、さまざまな困難を抱えている方たちが集まって、それを解決しようと努力されている場所がたくさんあるけれど、そこに特化すればするほど、実は子どもも親も支援者も、その枠からなかなか抜け出せずにいる現状があるような気がする。

困難な状態を「支えて!理解して!」と言っているだけの人や場所、または困難な状態を世の中に合わせる方向でしか考えていない人や場所は、限界があるなぁ、、と。

「困難な状態」から「ハッピーな状態」になれるような仕組みを持っているところって、またはそういう人って、その状態を受け止めてもらう多様性を相手に持ってもらうこと、その状態を世の中のどこに組み込んでいくかということ、世の中に受け入れてもらえないその状態をどう変えていくかを、バランスよく見極めて関係を築いていると思う。

そういう人やところって、大方、なにやっているか、なんとなくわかるけど、「具体的に説明しろ」と言われると説明できないことが多いような気もする。「だって、あれもこれもそれもどれもやってるんです」っていう。

「はぁ、いろいろ、、、ですか。それで、あなたたちの達成目標はなに?」と聞かれても、明確な答えはなかなか帰ってこない。聞いた側は「え?」となったり、「ん?ずらされた?」と思えてしまったりする。でも、それは「これです!」なんて単純化できる話では、実はなかったりするだけで。

かといって、別になんでもいいわけでなく、話を聞いていると理念というか思想というか方向性というか、そういった柱になるようなものを持っている。

上の3つをバランス良く見極めて関係を築くためには、そのくらいの幅広さというか柔軟さというかが必要だということなのかもしれない。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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