Archive for 8月 2014

自民党と教育政策ー教育委員任命制から臨教審までー / 山崎政人




1986年に出版された本書。戦後から当時までの自民党の教育政策を中心に学校教育界の歴史を追っているのですが、読んでいてとても数十年前の出来事とは思えない感覚をおぼえました。

日教組対策、経済界の要望に応える教育政策、教育によって愛国心を植え付けようと試みていること、能力主義にもとづいた教育政策展開、そのためにいかに国が教育を管理しようと試みて来たかが、ずらーっと書かれている。日教組対策は1950年代には始まっているし、そのほかも1960年代から自民党は同じ方向で進んでいますね。

底流に流れているのは
自民党は結党大会で等の政策の基本方針を示す六項目の「政綱」を決定した。その第一項目は「国民道議の確立と教育の改革」で
「正しい民主主義と祖国愛を高揚する国民道議を確立するため、現行教育制度を改革するとともに教育の政治的中立を徹底し、また育英制度を拡充し、青年教育を強化する。体育を奨励し、芸術を育成し、娯楽の健全化をはかって、国民上層の純化向上につとめる」とうたった。
まず第一に教育改革をかかげたことについて、自民党の正史『自由民主党二十年の歩み』は「占領政策是正のための一つの重要課題が教育を刷新改革し、とくに政治的に著しく偏向しつつある教育を正常な姿に戻し、教育水準を高めることにあるというのが、自由民主党立党答辞の強い信念であった」
「自由民主党が立党後まず第一に取り組んだ課題は、占領下における教育政策の誤りに乗じて勢力を伸ばした左翼日教組指導層の政治的偏向によって政治的中立性が失われつつある教育を正常な形に戻すことであった」と書いている。
という自民党の政策と日教組との対峙。

1945年の戦後教育改革がなされてから、70年弱。徐々に徐々に自民党が『自由民主党二十年の歩み』に書かれている「強い信念」を実現していく過程が描かれています。そして、それらは今も続けて展開されていることに驚きました。その70年を憶うと、このままでは、今の教育行政の問題、教育現場における課題や教育という側面からのぞいたときに垣間見える社会問題、それらに伴った今横たわっている閉塞感がこれからも変わらずに居座ることへの危機感を覚えました。

集団的自衛権の行使容認とそれにともなう憲法解釈の変更を閣議決定し、改憲論議が今後も展開されることが予想される今の日本で、自民党・安倍政権がかかげる国づくり、その国づくりの元となる教育政策が、戦後の教育政策のどういった延長線上にあるものかを今一度確認するのにふさわしい良書だと思います。

政党が口を挟むことができずに、GHQ主導で進められた戦後教育改革を本書から最後に抜粋します。自民党は国を強くするために、教育政策を進めたいのでしょうね。
戦後の教育改革は、政党とはほとんど無関係に進められた。占領という状況下で連合軍総司令部(GHQ)の指令、覚書、さらにはGHQの要請で来日した米国教育使節団の報告などは絶対的な権威をもっていた。わが国の側で改革の具体策策定に当たったのは、学者、文化人を中心に構成された教育刷新委員会(のち審議会)であり、その答申にもとづいて、戦後教育の骨格を定めた「教育基本法」や「学校教育法」が制定(四七年三月)されたがその論議に政党が口をはさむ余地はなかった。
戦後の教育改革は、大よそ次のようにまとめることができよう。
一、平和と民主主義 − 教育基本法は前文で「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献」するという理想の実現は「根本において教育の力にまつべきもの」といい、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期」す、とうたった。それが戦前の軍国主義、超国家主義教育に対するきびしい反省から出たものであることはいうまでもない。平和と民主主義こそが戦後教育の原点だった。
二、国家の教育権から国民の教育権へ − 戦前、教育は国家が富国強兵を実現するために国民に課した義務だった。憲法は第二六条で「すべて国民は…教育を受ける権利を有する」と教育が国民にとって権利であることを明示した。この権利、義務関係の一八〇度の転換が、戦後改革の核心であり、教育は国のためでも、経済発展のためでもなく、どこまでも個人の「人格の完成」(教育基本法第一条)を目指すべきものとされた。
三、教育の機会均等 − 「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」(教育基本法第三条)とされ、教育上の差別はすべて否定された。義務(子どもの学習権を保障するために親に課せられた就学させる義務)教育は九年間に延長された。また高校も、義務制ではないものの、「入学希望者をできるだけ多く」収容することが望ましく、「選抜をしなければならない場合も、これはそれ自体として望ましいことでなく、やむをえない害悪であって、経済が復興して新制高等学校で学びたい者に適当な施設を用意することができるようになれば、直ちになくすべきもの」(文部省、『新制中学校・新制高等学校、望ましい運営の指針』−一九四九年)とされた。男女共学が原則とされ、女子に対してすべての高等教育の門が開かれた。
四、単線型学校体系 − 戦前は小学校を終えると中学校、高等女学校、職業学校、高等小学校と複数コースに分かれ、中学以外のコースは上級学校への進学が困難な閉鎖回路になっていた。高等教育も高校(旧制)−大学と高等専門学校に複線化され、このような複線型学校体系が人材振り分け、階層分化の機能を果たしてきた。戦後の学校体系は小学校—中学校—高校—大学と単線化され、すべての学校で上級学校進学が保障されることになった。
五、教育の自由—戦前、学校で教える内容は教育勅語と国定教科書によってきびしいワクがはめられていた。教師がこれから一歩でも外れることは許されなかった。一九四七年に文部省が発行した学習指導要領一般編(試案)は「いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる」という書き出しで始まり、「これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった傾きのあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげて行くようになって来たということ」といい、「直接に児童に接してその育成の任に当たる教師は、よくそれぞれの地域の社会の特性を見てとり、児童を知って、たえず教育の内容についても、方法についても工夫をこらして、これを適切なものにして、教育の目的を達するように努めなくてはなるまい」と書いている。
また、教科書は出版社が自由に出版し、それが基準に合っているかどうかだけをチエックする検定制がとられた。検定は都道府県教育委員会の権限とされた(一九五三年の法改正で文部省の権限となる)
六、教育の住民自治、地方分権 — 教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行なわれ」(教育基本法第一〇条)なければならないとされた。そして「公正な民意により、地方の実情に即した教育行政」(教育委員会法第一条)を行うために教育委員会がつくられた。行政に直接、民意を反映させるため、委員は選挙で選ぶ(公選)こととされた。これらの改革が教育刷新委員会・同審議会の建議にもとづいて精力的に実施に移されていった。



憲法の「空語」を充たすために/内田樹



2014年5月3日の憲法記念日に神戸市で行われた兵庫県憲法会議主催の集会で行われた内田樹さんの講演にご自身が加筆されたもの。

相変わらずの内田さんの語りで分かりやすく、憲法とは何か、今その憲法がどういう流れで変えられようとしているのかが書かれています。

私たちの教育の世界のみならず、政治の世界も市場原理の発想で動いていることがよくわかるな。

改憲論議はこれからも続くわけで、そのとき、憲法改正案を作る人がどういう意図で、どういう国づくりをしたいか、そのためにどういう手段でそれを達成するのか、我々国民はそこにどう組み込まれていくのかを注視する必要がある。

憲法が確定された一九四六年の段階では、「日本国民」という実態はありませんでした。(中略)「だから改憲すべきだ」という声が出てくる理路は僕には理解できます。でも、問題はそのときの改憲の主体は誰なのか、ということです。「改憲したい」という人たちが、「主語が空語だから困る、中身のある言葉を主語にして憲法を改正したい」というのは、ロジカルには正しい。では、あなたがたは誰を憲法制定の主体にもってくるのか、何を主語にもってくるつもりなのか。
そして、内田さん「日本は法治国家ではなく、人治国家になってしまった」とおっしゃっています。
政局が流動化すれば、離合集散して予見不能の行動をとる。それが政治家です。ですから、政治家に長期的な首尾一貫性を求めることはできません。でも、そのつどの短期的な状況に最適化していると、長期的には不利益をもたらすこともあります。ですから、短期的な猫の目のようにくるくる代わる政策決定とは別の水準に、「これだけは変えてはならない」政体の構えがなくては済まされない。憲法はそのためのものです。(中略)立憲主義というのは、「法律ではこうきまっているのだから、それに従ってやりなさい。それがいやだったら法律を変えなさい」ということです。人治というのは、法律条文を権力者が自己都合で恣意的に解釈運用することです。もちろん法治と人治は截然と分離できるものではありません。ある部分までは法治、ある部分においては人治というのはどのような政体でもなされている。ソリッドな、勝手にいじってはいけない深層の骨格部分と、状況に応じて変化してよい表層の部分がある。問題はその境界線をどう引くのかの「さじ加減」です。今勧められている解釈改憲の動きは「法治から人治へのシフト」のプロセスだと言ってよいと思います。安倍首相は繰り返し、「総理大臣が最終決定者である」ということを強調していますが、それは「憲法や法律が想定していな局面において迅速に最適な政策決定を行う必要がある場合には、総理大臣に憲法や法律を超える権限を賦与するべきだ」というロジックに基づいています。
まさにそうだなぁ、という感想。僕らは、その「さじ加減」、そしてその人がどういう思想に基づいているかを見極めねばならない。そういうこともあって、内閣支持率は下がり続けているんでしょうが、それでもまだ43%もある。そこでこういう問いをたてて論じています。
なぜ、日本人は自分たちを主権者に見立ててくれている民主制と立憲主義を打ち捨ててまで、総理大臣に気前よい権限委譲をしたい気分になっているのでしょう。
僕はこのトレンドを「国民国家の株式会社化」という枠組みでとらえています。(中略)政治イデオロギーの適否判断よりも「経済成長」が優先的に配慮されている。最優先に問われるべきことは、その統治システムが「金儲けしやすい」かどうかであって、政体としての適否には副次的な重要性しか無い。そう考えている人達が国政をコントロールしている。
まさに安倍首相は「経済成長」という言葉をよく発していますしね。そして、長引く不況の中で、自分たちの苦しみを救ってくれるのは、経済成長だと思っている国民も多いのだと思います。政治ではなく、経済が救ってくれると思っている国民が多いのでしょうね。

長々、ダラダラとイデオロギー合戦を繰り広げた時代、結党解党を繰り返し、利権に囚われ、政策も法案も骨抜きの妥協案にしかならず、いっこうに変わらない世の中。閉塞感漂う中で、新しい道を見いだせず懐古的になっている。

そういう道もあるのだとは思いますが、僕は戦後一貫して経済成長に豊かさを求めて来た我々はそろそろ次の段階に移る時期なんじゃないのかなぁ、と漠然と考えています。明治から昭和初期にかけての欧米列強に支配されない国づくりから、追いつけ追い越せの道を歩む中で第二次世界大戦に突入し敗戦。焦土と化した国を復興させるべく、経済成長の道を歩む中、いきついたバブル崩壊。それから20年。様々な社会問題が山積し続ける中で「あの時代をもう一度」というところなんでしょう。国民は。それとグローバリゼーションの波に乗りたい政治家の意気投合なのかな。政治の世界にもイノベーションが必要なんじゃないのかな。

内田さんは

憲法の脆弱性は、その起源において「私が憲法を制定する」と名乗る主体が生身の人間として存在しないという原事実にある、と先ほど申し上げました。ということはつまり、起源に戻って憲法を堅く基礎づけるということはできないということです。であるとすれば、残された道は論理的には一つしかない。その起源においての主体の欠如を補填するために、「空文であった憲法を私たちが現実化した」と名乗り得る主体を立ち上げること、それしかない。

と語っていますが、今こそ、そうした「空語を充たす」道もあるのになぁ…と僕は思います。そのためには、復古主義的思想や経済最優先といった考え方を改める必要がある気がします。

Profile

北星学園余市高等学校で教員をしています。
Instagram