この本に一貫して伏流しているのは、世の中がこれからどうなるのかの予測が立たないときには、何が「正しい」のかを言うことができない、という「不能の覚知」である。
その「不能」を認識したうえで、ものごとを単純化しすぎるきらいのある風潮にあらがって、「世の中というのはもう少し複雑な作りになっているのではないか」ということをうじうじと申し上げたのである。
「快刀乱麻を断つ」というのがこういうエッセイ本の真骨頂であり、読者諸氏もそのような爽快感を求めておられることは熟知しているのであるが、残念ながら本書はそのような快楽を提供することができない。筆者はああでもないこうでもないと言を左右にし、容易に断言をせず、他人を批判する時も自分は逃げ支度をしており、本書をいくら読んでもそれで世の中の風景が判明になるということは期待できないのである。すまないが。
しかし、言い訳をさせていただくと、昨今の時評類はあまりに話を簡単にしすぎてはいないか。
世界情勢は複雑にして怪奇であり、歴史はうねうねと蛇行し、私たちの日本社会も先行きどうなるのか少しも見えない。そういうときには、それらの事象のうちとりわけ奇にして通じ難いところを「分からない、分からない」と苦渋の汗をにじませながら記述することもまた、面倒な細部をはしょって無理やり話の筋道を通してしまう作業と同じく必要な仕事ではないか、と私には思われるのである。
それゆえ、この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。
(子どもは判ってくれない/内田樹・著、251p-253p)
「自分らしく」あるのは当然か、74p-81p
身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない、107p-111p
幻想と真実は交換できない、111p-121p
話を複雑にすることの効用、124p-132p
呪いのコミュニケーション、133p-142p
友達であり続ける秘訣、146p-151p
すべての家族は機能不全、151p-154p
ヨイショと雅量、154p-159p
風通しの良い国交とは、228p-233p
ネオコンと愛国心、233p246p