Archive for 2010

「街場の現代思想/内田樹」を読む

「お金について」「転職について」「結婚という終わりなき不快について」「他者としての配偶者について」「学歴について」「想像力と倫理について」といった十五のお題に対する、人生相談の皮をかぶった、現代思想の講義である。
フリーターとかバレンタインのチョコとか学歴詐称とか、表層的には私たちがよく知っている「現代」の事象を扱っているけれども、そこで語られている内容は、(ほぼ)いつでも、どこでも、誰にでも適用できる、普遍性の高い知見なのだ。


(街場の現代思想/内田樹・著、257p 解説:橋本麻里)


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「子どもは判ってくれない」を読む


この本に一貫して伏流しているのは、世の中がこれからどうなるのかの予測が立たないときには、何が「正しい」のかを言うことができない、という「不能の覚知」である。

その「不能」を認識したうえで、ものごとを単純化しすぎるきらいのある風潮にあらがって、「世の中というのはもう少し複雑な作りになっているのではないか」ということをうじうじと申し上げたのである。

「快刀乱麻を断つ」というのがこういうエッセイ本の真骨頂であり、読者諸氏もそのような爽快感を求めておられることは熟知しているのであるが、残念ながら本書はそのような快楽を提供することができない。筆者はああでもないこうでもないと言を左右にし、容易に断言をせず、他人を批判する時も自分は逃げ支度をしており、本書をいくら読んでもそれで世の中の風景が判明になるということは期待できないのである。すまないが。

しかし、言い訳をさせていただくと、昨今の時評類はあまりに話を簡単にしすぎてはいないか。

世界情勢は複雑にして怪奇であり、歴史はうねうねと蛇行し、私たちの日本社会も先行きどうなるのか少しも見えない。そういうときには、それらの事象のうちとりわけ奇にして通じ難いところを「分からない、分からない」と苦渋の汗をにじませながら記述することもまた、面倒な細部をはしょって無理やり話の筋道を通してしまう作業と同じく必要な仕事ではないか、と私には思われるのである。

それゆえ、この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。

一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。

いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。

これである。

(子どもは判ってくれない/内田樹・著、251p-253p)

「自分らしく」あるのは当然か、74p-81p
身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない、107p-111p
幻想と真実は交換できない、111p-121p
話を複雑にすることの効用、124p-132p
呪いのコミュニケーション、133p-142p
友達であり続ける秘訣、146p-151p
すべての家族は機能不全、151p-154p
ヨイショと雅量、154p-159p
風通しの良い国交とは、228p-233p
ネオコンと愛国心、233p246p


子どもは判ってくれない
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【イベント情報】シンポジウム「非行少年」に、もっと弁護士を!


日時:2011年1月29日(土)13:30~17:00
会場:日本教育会館一ツ橋ホール(千代田区一ツ橋2-6-2)
内容(予定):演劇 東京弁護士会「もがれた翼特別講演『扉を開いて』」
       基調報告 全面的国選付添人制度の実現の必要性
       リレートーク 少年法研究者、少年審判の経験者、家裁調査官等
参加費:無料
主催:日本弁護士連合会
問合せ先:03-3580-9502
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【イベント情報】少年院からの社会復帰と、当事者支援の可能性


日時:2011年1月15日(土)、16日(日)
会場:立教大学池袋キャンパス14号館(豊島区西池袋3-34-1)
講演:シャッド・マルナさん(クイーンズ大学ベルファスト校教授)…15日の基調講演
   クリスター・カールソンさん(スウェーデン:KRIS理事長)…16日の基調講演
ゲスト:川嵜竜希さん(元暴力団員で元プロボクサー)…15日のメインセッション
    「当事者が語ることの意味:自分の当事者から社会の当事者へ」
主催:NPO法人セカンドチャンス!
申し込み要:1月10日まで
メール:second.chance.event2011@gmail.com

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【イベント情報】発達障害と少年非行を考える


発達障害と少年非行を考える
講師:藤川洋子(京都ノートルダム女子大学教授・元家庭裁判所調査官、臨床心理士)
日時:2011年1月22日(土)13:30~17:00
会場:日本教育会館・中会議室(千代田区一ツ橋2-6-2)
※他に体験報告があります
参加費:800円
主催:NPO非行克服支援センター
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東京、「東京シューレ」「雨あがりの会」「フリースペースコスモ」「不登校支援協会」さんを訪問。


今日も盛りだくさんな出会いでした。東京シューレさんとフリースペースコスモさんは、私個人的に2回目の訪問。東京シューレでは、中村さんと精神医療が現在の教育の現場に及ぼしている影響や不登校生の安易な進路選択について盛り上がる。フリースペースコスモさんでは、その子どもたちの居場所がとても明るく生き生きしているのを感じながら、四万十川を歩く冒険旅行の活動や、ベトナムツアーなどの話を聞きながら、スタッフの馬場さんと交流しました。


雨あがりの会さんは、「非行」と向き合う親たちの会で、代表は「ブリキの勲章」で知られる能重真作先生。つい先日も北星余市高校のPTAの会「山親爺(オヤジ)の会」の例会に来ていただいてお話をいただいたり、毎年行われる全国大会に本校教員が参加するなど、ここ数年さまざまな形で交流を持たせていただいています。

ブリキの勲章―非行をのりこえた45人の中学生と教師の記録 (1979年)/能重 真作

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「不登校支援協会」さんとは、こちらの時間の都合上、短い時間でしかお会いできなかったのですが、こちらも毎年国分寺で開かれている不登校生のための進路相談会に参加させていただいていて、そういった会以外の機会にお会いするのが初めてでしたので、有意義な時間でした。今度はゆっくりお奈々氏がしたいと思いました。


今日の雑感です。

今日は山梨県と千葉県を訪問。親たちの会「ぶどうの会」や「ひだまり」さんなどを訪れました。


昨日の夜、訪問を終わってから山梨に飛びました。途中首都高の渋滞にはまりながら3時間の移動。ナビでは2時間で作っていってたのに…。


山梨県ではスキルアップスクールさんや中央市福祉課の方、不登校の子どもを持つ親の会「ぶどうの会」さんにお会いしてきました。


スキルアップスクールさんでは、パソコン操作の技術習得を通じて障害者の就労移行支援を行っている施設です。「単純にパソコンの技術を身につけて就労に導くだけでは意味がないと思っています。あいさつ、コミュニケーションのとりかた、そういったことを学ぶことが何よりも大事」と担当された方がおっしゃってました。大切な考え方だと思います。


その後「ぶどうの会」を訪問。鈴木正洋さん、はつみさんご夫妻にお会いし、お昼ごはんまでごちそうになりました。1時間半もおじゃまし、教育談義。子どもたちにとって本当に必要な「学び」とは何か、不登校に陥った子どもにとって必要な経験は何か、そんなことを話しながら意気投合。本当に素敵な出会いでした。鈴木さん一家が経験したことをもとに出版された本、「不登校だったボクと島の物語」を買わせていただきました。ほ!鳩間島!!ふむふむ!!


不登校だったボクと島の物語/鈴木 正輝

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その後、千葉県に飛び、「ひだまり」さんを訪問。情報交換をさせていただきながら、「先日、北星余市の親御さんがここの進路相談会でお話ししてくださったんです」とのこと。「熱心な親御さんで…」とおっしゃってくださいました。


これを機にみなさんといろいろ関わりを持てたら嬉しいと思う出会いばかりでした。


エルムアカデミーさんを訪問しました。


昨日から関東のいつもお世話になっている方々の所を回っていますが、今日は品川区にありますエルムアカデミーさんを訪問。生徒が3名きていて、みんな元気に頑張っているのでご報告に。


もともとこちらは1984年に学習塾としてスタート。この間、日本の知識詰め込み型競争教育とは一線を画した教育実践をされている塾です。


「私たちは、ただ知識を詰め込むだけで、子どもが“育つ”とは考えません。“学ぶ”ということの意味をともに考え、悩み、“いかに生きるか”を子どもたちとつむぎだしていきます。そうしてはじめて子どもたちのなかで“学ぶ”ということと“育つ”ということがしっかりと結びつくのだと考えます。」(エルムアカデミーホームページより


ふーむ。


1時間ほどお時間をいただいて、教育談義。東京都の不登校教育事情に関するお話も頂きました。私が訪問させていただいたのは2回目。そのときも個人的に感じたのですが、北星余市との考え方に近いものを感じます。夏には1週間の合宿をされるとか。毎年8月頭に自由の森学園さんの校舎をお借りして行われているみたいです。先生と生徒でつくり上げる合宿。今度訪問させていただくときには、ぜひ私も一泊体験してみたいです。


エルムアカデミー

来週は関東での生活


今日から関東での生活が1週間。ホテル暮らしは疲れるんだよなぁ。


明日は栃木県で教育相談会、そして明後日は埼玉で同じく相談会。その後、月曜から金曜まで、埼玉・東京・山梨・栃木・茨城を訪問する。良い出会いがあることを願って。

気がついたら、こんなところまで来ていた件


なんか、気がついたらこんなところにいる。自分はこれからどこにいくのだろう…と考えても仕方のないことなんぞを考え込む。


聖書には預言者ヨナの話がある。そういうものなのか。私にはわからないが、与えられたことはせねばなるまい。

「公共性」と「痩我慢」


繰り返し言うが、発生的に国家は私事にすぎない。
だが、誰かが「治国平天下」のために生きるということをおのれの規矩として引き受けるとき、その個人の実存によって、「私事としての国家」に一抹の公共性が点灯する。
国家というのは成立したはじめから公共的であるのではなく、その存続のために「痩我慢」をする人間が出てきたときにはじめて公共的なものに「繰り上がる」。
国家は即自的に公共的であるのではない。
私事としての国家のために、身銭を切る個人が出てきたときに公共的なものになるのである。
公共性を構築するのは個人の主体的な参与なのだ。
誤解して欲しくないが、「だからみんな国家のために滅私奉公しろ」というような偏差値の低い結論を導くために私はこんなことを書いているのではない。
「だからみんな・・・」というような恫喝をする人間は「国家が本質的には私事である」という福沢の前提をまったく理解できていない。
彼らは自分が何の関与もしなくても、公共物としての国家は存在し、存在し続けると思っている。
それは「誰か」が自分の手持ちのクレジットを吐き出して、公共性のために供与することによってしか動き出さないのである。
そのような「痩我慢」は純粋に自発的な、主体的な参与によってしか果たされない。
痩我慢というのは、徹底的に個人的なものである。
そして、福沢は行間においてさらににべもないことを言っている。
そのような「痩我慢」を担いうるのは例外的な傑物だけである。凡人にはそんな困難な仕事は要求してはならない。
というのは、凡人に我慢をさせるためには強制によるしかないからだ。
政治的恫喝であれ、イデオロギー的洗脳であれ、そのような外的強制による我慢には何の価値もない。
そのような不純なものによって「私事としての国家」が公共性を獲得するということはありえない。
現に、北朝鮮では国民的な規模で「我慢」が演じられている。だが、外的強制による「我慢」が全体化するほど、この国はますます公共性を失い、「私物」化している。
「こんなこと、ほんとうはしたくないのだけれど、やらないと罰されるからやる」というのはただの「我慢」である。
それは何も生み出さない。
「こんなこと、ほんとうはしたくないのだが、俺がやらないと誰もやらないようだから、俺がやるしかないか」という理由でやるのが「痩我慢」である。
それは「選ばれた人間」だけが引き受ける公共的責務である。


内田樹の研究室「公共性と痩我慢について」より

組織がつぶれるのは・・・


「メンバーの士気が微妙に下がる」ということのもたらすネガティヴな効果を人々は軽んじる傾向にあるが、たいていの場合組織がつぶれるのはシアトリカルな外圧や驚天動地の破局によってではなく、メンバーたちの「なんとなくやる気がしない」という日常的な気分の蓄積によってなのである。


内田樹の研究室「小沢一郎は勝つのか?」より

【将来は大人になると思っていた】
「何でも構わないの、何か限定しないで自由自在に考えることが大事」


Photo by h.koppdelaney

池田君 私は今、高校3年生なんですが、先生が高校3年生でいらっしゃった頃は、自分の将来に対して何をお考えだったんでしょうか。


團藤 どういうこと?


池田君 ご自分の将来、どんなものになりたいか、とか。


團藤 将来は大人になると思っていたね(笑)。


一同 (笑)。


團藤 本当だよ。大人にはなる、そこで何かはやるんだから、その中で好きなところを選んでいけばいい、というので初めは何も考えなかった。まあ、法学部でしたから、法律関係のことをやろうとは思っていた。だけど大学とか最高裁なんてことは全然考えてもみなかった。何でも構わないの、何か限定しないで自由自在に考えることが大事。


伊東 そういう意味では最近の若い人が、本当に早いうちから「専門」を絞って、これは自分とは関係ない、関係ないと切り捨てるのをよく見て、むしろかわいそうだと思うのですが、それはずいぶん違いますね。


團藤 大学に入って、真っ先に何を勉強したかといえば、さっき言った『洗心洞箚記』ね。でもあれだって革命思想でしょう。大人になって就く職業なんてことは考えもしなかった。


伊東 以前、先生に伺って、へえと思ったのは、我妻先生で民法のリポートをお書きになったのですよね? ドイツ語の論文を渡されて、一夏かけてリポートを200ページだか、まとめられたと。團藤先生イコール刑法と我々は考えやすいですが、我妻先生にも非常に将来を嘱望されて、民法も非常に早い時期に取り組まれた。


團藤 我妻先生は民法の大家だから、当時は若かったけどね。夏休みの始まる頃に行って、夏休みはどんな勉強をすればいいでしょうかと伺ったら、この雑誌を読んでみなさいと。新しく到着した『ツァイトシュリフト・フュア・ゾツィアレスレヒト』。ゾツィアレスレヒトはソーシャルローね、社会法。新しい号が到着して、それを君に貸してやるから好きなものを読んでみたらと。それを見たら、ゴルトシュミット(Goldschmidt)の経済法のことが書いてあって、それが面白くなって、経済法のことを一生懸命勉強してみようと思った。ところがその頃は大学も何も大したことなくて、参考書がない。上野図書館にもない。どこに行ってもないので、結局大したことにはならなくて、でもとにかく300ページぐらいのものにまとめて、先生に提出したの。


伊東 300ページでしたか、失礼しました。


團藤 我妻先生も読みもしなかったと思うんですよ、忙しいからね。そんな一学生の書いたそんなリポートを読んでいたりしたら、自分の仕事ができないからね。


伊東 いえいえ、とんでもない。


團藤 だいたいそういうことで、実は経済法から勉強を始めた。だけど、経済法もいいけど、そのうちに経済法には、民法の我妻先生のところに川島さん(川島武宜1909~1992)という方がおられて、それからその後もう1人別な人が来て、それから助手も来栖君(来栖三郎1912~1998)がいたから、結局、刑事法にしようということにした。それだけですよ。


A「何になろうとも思わなかった。テーマを絞らず面白いことは何でも一生懸命やった」


團藤 その頃はね、刑事法は牧野先生(牧野英一 1878~1970)と小野先生(小野清一郎 1891~1986)と、お2人がこう、チャンチャンバラバラで。大変だったんだよ。両方のお弟子ということは考えられないので、とにかく小野先生の方が若いから小野先生の方に行こうと思った。確かに仲が悪いんだね。正月に小野先生のところにお年賀に行って、それから牧野先生のところにも伺おうと思っていたら、小野先生は「あんなところには行かんでもいい」と。それですっかり小野先生に見切りをつけたの。立派な方だけど、いやしくも自分の恩師だろう、学生とは違う。「あんなところに行かんでいい」ということはないだろう、と思って。じゃあ、ぜひ行ってみようと思って小野先生には黙って牧野先生のところに遊びに行ったんです。面白かったよ。












團藤重光・高校生のための「裁判員反骨ゼミナール」より

【好きなことを一生懸命やる】
「僕がああいうことをいったからそうしようというのではだめなんだ」


Photo by dennis and aimee jonez


團藤 そう、好きなことを一生懸命やる。遊んで勉強して、よく学び、よく遊びだね。そんな難しく考えないで。

伊東 法律に興味を持つ、ということが一番大切だし、また一番難しいのかもしれませんね。團藤先生は、岡山から上京されて東大図書館で最初にお読みになったのが大塩平八郎こと大塩中斎の『洗心洞箚記』だったのでしたよね?

團藤 その通り、陽明学ね。

伊東 ですから、入り方がどこかというのは、どこであってもいい、好きなこと、興味を持った入り口からでいいということですね。

團藤 その通りです。

伊東 それをもっと一般化して考えるのが大切そうです。團藤先生が大塩平八郎の次に読まれたのはドイツ語の原書だったわけですよね。

團藤 そうそう、次というか、同時にね。当時は毎日、本当に緊張してね、何というんだろう、意気に燃えていたね。とにかく自分の人生の門出でしょう。大学の門出は人生の門出だからね。だから何でも片っ端から読んだ。僕が一番初めに読んだ原書はイェーリングのローマ法の歴史だね。ローマって、法科に入るとローマ法から始めるでしょう? そうするとイェーリングを抜きにしてはだめなので、イェーリングのローマ法の歴史、『法における目的(Der Zweck im Recht)』そればっかり読んでいた。それと『洗心洞箚記』、さっきの大塩平八郎のね。あれは面白いですよ。


伊東 この頃の大学生は法学部に入ると、すごく咀嚼しやすく作られた教科書を与えられるのが大半で、原書はほとんど読まないし読ませないと思うんです。テキストから入っちゃうので、それの弊害がすごく出ているような気はしています。

團藤 最初は、訳が分からないのが一番いいね。だって初めから分かったようなつもりになっちゃったら伸びないものね。何でもいいから、分からないことにぶつかっていく。ぶつかっていくことが一番大事だ、何でも。だから、法律を始めてみたけど面白くなくて、理科を始めたと言っても全く構わない。理科をやっている間に、また法律に興味を持ったらそれでもいい。

伊東 大学時代、物理学科の2級先輩で茂木健一郎という人が、そんなキャリアを踏んでいます。

團藤 何でもいいから、好きなことをやっていることだね。自分からしないとだめですよ。誰かに言われて、例えば今日、僕がああいうことを言ったからそうしようというのではだめなんだ、自分でそういうつもりになってやらなきゃね。それが一番大事。




【生徒たちに企画を】
自分の「外」の人と繋がること、それは新しい世界が広がるきっかけであること。

年度末ごろの話ですが。2010年3月13日、僕と生徒一人とパンフレット制作でお世話になっているBREWさんの3人で『第1回写真バトル in 小樽』と称して遊んできました。

その様子は、本校サイト内のブログ「北星余市は今」を参考にしていただきたいと思いますが、今回の企画は写真部の取り組みとは別で、「BREWさん、写真の撮り方教えてください」という、その子のふとしたアプローチから始まった企画でした。

この子はヨット部でも頑張っている子で、最近、父親から一眼レフカメラ(not デジタル)を借りて、写真にも興味を持ち始めたとか。で、BREWさんは「2009年11月27日ヨット部、クルーザーに乗る!」のきっかけを作ってくださった方でもあり、一緒にクルーザーに乗った仲なので、卒業式の撮影に来ていたBREWさんを捕まえて、その子がお願いした。そんなひょんなことから、今回のこの企画が始まったわけです。

なんていうか、そういった一連のやり取りから、身近な大人を捕まえて、自分の世界を広げようとする姿勢とエネルギーの貴重さ、そしてそれを大人が受け止めてあげるその大切さを感じたわけです。些細な企画ではあります。しかし、日常に追われている教師が見落としがちな大切なことなのだと思います。

人とのつながりを作るというのは、難しいようで意外と簡単だったりします。何がしたいかを考えて、それを適当と思われる人に対して、声をかけるだけですから。けれど、口で言うほど簡単なことでもない。色々なことが頭をよぎるわけです。

彼女がBREWさんに「教えてください」と声を発する行為そのものは、簡単なことなんです。そして、そこから新しい世界を作っていくことも意外と簡単にできていく。でも、その一歩を踏み出すことは、本当は難しいことなんだと思うわけです。

しかし、この一歩がとても大切なアプローチで、それをできることが大きな力につながっていくものだと思います。

本校の卒業生でも、また在校中の生徒でも、外の世界に目を向けてめきめきと力をつけていく生徒が大勢います。そういった子の多くは、自分の興味を持った事柄に対して、そういったアプローチをかけていく姿勢があります。彼女がそういうアプローチをしたことを聞いたときは、とても大きな力が彼女に備わっているのだなぁ、、とうれしく思った瞬間でした。

当日は朝10:00に小樽駅に集合して、重要文化財に指定されている「旧日本郵船小樽支店」まで歩いていき、小樽のお土産通りともいえる「栄町通り」を巡って、その後「小樽といえば、硝子でしょう!」ということで「浅原硝子製造所」を訪問させていただいて、旧手宮線に戻って、、、という感じで小樽を堪能しました。

生徒も喜んでくれたと思います。新学期になったら、撮影した写真をプリントアウトして額に入れて掲示板に飾ったり、第2回写真バトルなんかも開催したいなぁ、、、って思っていたりしています。

【地域の助け】
「地域と若者自立支援活動に関する共同公開ゼミ」に参加してきました。

2010年3月14日(日)に開催された「埼玉大学教育学部安藤ゼミ」と「青少年自立支援センタービバハウス」の共催による共同公開ゼミに出席。


(参考:余市テラス http://comiresu-hokkaido.net/blog/3/173.html )


「青少年自立支援センタービバハウス」は、10年前から余市町でニート、ひきこもりと呼ばれる困難を抱える若者の自立支援活動に取り組んでいて、本校の元教員である安達先生が運営されている。若者支援を研究テーマにしている埼玉大学・安藤ゼミの研修を昨年の夏にビバハウスが受け入れ、それがきっかけとなって今回の運びとなったとのこと。


引きこもりと呼ばれる若者は、2005年の時点で150万人以上(NHK福祉ネットワーク調べ)、ニートと呼ばれる若者は、現時点でも60万人以上おり大きな社会問題である。しかも、これらの若者は年々増加と高齢化している現状がある。これらの若者に対する自立支援をどう行っていったらよいのか、これが今回のテーマであった。


具体的な内容としては、これら若者自立支援の取り組みに地域がかかわっていくことへの模索と事例の紹介であった。


ニートや引きこもりを経験している人たちの中には、中学校や高校時代に不登校を経験し、その延長線上にそのような状態となっている人も多いという。そういった現状を踏まえると、我々学校教育が現場において不登校の子どもたちにたいして、どのような営みをしていくべきかを考えさせられる時間だった。また、地域にある学校として、そういった取り組みにいかに協力していくことができるのかも考えさせられる時間だった。


深く考えがまとまっているわけではない。むしろ、今回の話を聞いて、僕自身開眼させられた思いでいるが、今後、そういったことを考えるきっかけにしたいと思う。

【教育講演対話集会】
発達障害と育ちの関係


Photo by saoreal-life



今、僕は名古屋にいます。北星余市には全国から生徒がきており、愛知県からもたくさんの生徒が毎年のようにきています。昨日は、タイトルにもある「教育講演対話集会」に講師として参加させていただいたのですが、その前に名古屋駅前にある名鉄百貨店のなかをうろついていたら、「あーーーーー」という声が。


34期生、9年前に卒業した生徒でした。うーーーーん、ご縁ですね。なんてお互いに驚く。別になんの用事があって入ったわけでもない、ただなんとなく入った名鉄百貨店だが、これこそまさに「ご縁」という瞬間を肌で感じる。そういうのってあるんですよね。これ不思議。


彼女は現在27歳。愛知県の定時制の高校で非常勤の先生をしているとのことでした。「今の仕事をして、とても楽しい、充実した生活を送れている」と笑顔で語ってくれました。そして、小学校の教員を目指して、今は通信制の大学で勉強中とか。とても生き生きした顔に、教師にしか味わうことのできない喜びをかみしめる。


しかし、全国に生徒がいるということは、悪いことはできないですね。


「教育講演対話集会」。こちらは東京にあるNPO法人不登校情報センターと名古屋にある木村登校拒否相談室の主催で開催。講師は私のほかに黄柳野高校(愛知県)の校長・辻田先生とどんぐり向方学園理事長・天龍興譲高校校長である中野先生がおられて、それぞれのテーマで30分ほどお話をさせていただく。そのあと会場の人たちからの声も交えながら語り合うという趣旨の集会でした。


どんぐり向方学園の中野先生は名古屋経済大学の教授をされており、大脳生理学者でいらっしゃる。その先生がおっしゃるには人間は前頭葉を鍛えることがとても大切で、この働きが鈍くなるとキレやすくなったり、物事に固執しやすくなる、柔軟性がなくなる、自分で考える行動ができなくなるという。この前頭葉を鍛えるためには、「計画・実行・反省」、PDSを実行することが大切で、こちらの学校ではそれの手段として体験学習を中心に据えて、教育されている。


ふーむ、、、と考えながら拝聴していると、シナプスのお話が。人間の脳細胞は1千億個とも1兆個とも言われているようだが、この脳細胞の数よりも大切なのは、その脳細胞と脳細胞をつなぐシナプスであるという。


ここ2~3年、本校の面接試験において「発達障害と診断された」というカミングアウトをされる方が非常に増えている。「【特別に育てられた子供の行く先は?】特殊支援教育への懸念」でも書かせていただいているのだが、私は個人的に「本当にすべてのそれは障害なのですかね」という疑問をもっている。要は、なんでもかんでも「発達障害だ」で片付けるのは危険だという意味である。発達障害の存在や、実際にそれを抱えている方がいること、そういう方々への特別な支援を否定するものではない。


中野先生のどんぐり向方学園でも、発達障害という診断を受けてこられる方がいらっしゃるようなのだが、この体験学習を通じて、その症状がなくなっていく子供がほとんどだという。中村先生は、前頭葉の育つべき部分が育っていないために、発達障害と同じ症状がでている、そして体験学習を通じ脳の発達すべき部分が育つことでそれが改善されていく、具体的にはシナプスの活動が活発になった結果である、という趣旨のことをおっしゃる。


育ちの問題に目を向けることも重要なのである。発達障害というのは先天性のもの、つまり「生まれつき」のものであるという定義がなされているので、一般的には育ちの問題、つまり後天性のものはそれに含まれないという考え方である。これだけ多くの子供が生まれつきそういう障害を抱えているという診断、そういう子供が増えているという考え方に私は納得がいかないのである。


本校にくるそういった生徒たちも、入学当初はあたかも発達障害かのようなそぶりを見せる。しかし、その大部分は学校生活を送り、時間がたつにつれてそういったものがなくなっていく。もちろん、そうでない子もいる。


「育ちの問題」という言い方は、「親の育て方が悪い」というのとはイコールではない。そういう要素もあるかもしれないけれど、学校教育の関わり方だって、育つ環境だって、社会一般の流れだって教育には深く影響を及ぼす。親の育て方だって、それらの影響を強く受ける。一分一秒、その人間の目の前に現れる出来事が人間の育ちには影響する。微細な話だが、昨日、私が百貨店で偶然にも卒業生に出会い、ご縁を再認識させてもらいながら、素敵な気分でそのあとの人と接することが出来た事が、またその日に合った人との出来事の上にも影響してくる。その出来事がまた明日の私を作っている。そういう事の積み重ねが時間的感覚を持って熟成されていくのが育ちであり、教育だからである。


「こういう行動をする子供はADHDという発達障害です」「こういう症状を表わす子供はアスペルガーです」というまるで占い本かのような書籍が本屋さんにずらーっとならんでいて、「この行動の原因は、先天的な脳の発達遅延、つまり発達障害である」という一言で片付ける本が巷ではあふれている。そろそろそうじゃない書籍というものに出会いたい気がする。

【現在87名】
北星余市を支える皆さんの力があってこそ

年度末も近づき、北星余市の入試も大詰めを迎えています。北星余市では、筆記試験のある入試とは別に「不登校などの理由で今まで勉強に向き合ってこなかった、でも高校からは頑張りたい」という意欲を組んであげたいという思いで、本人と保護者の方の面接による『予約面接試験』という受験方法を用意しています。


2010年度入試に向けては、予約面接Ⅱ期が3月25日(木)まで。Ⅲ期が3月26日(金)と4月1日(月)の2日間設けて、新年度開始のギリギリまで受験の機会を用意して、北星余市の門をたたく生徒たちを待っています。毎年数名、公立高校の結果を受けて、はたまたいよいよ意を決して、この時期に受験を決意する子供たちがいます。


そんな大詰めを迎えている北星余市の入試ですが、全国から「高校生活を頑張りたい」という生徒を募るうえで欠かせないのが北星余市を支えてくださっている皆さんの力です。全国四十数か所で開催される教育相談会の準備を担ってくださっているPTA、PTAOB。北星余市の教育を理解し「あの高校でがんばれ」と勧めてくださる中学校や高校の先生、フリースクールの先生、その他教育関係者の方々、施設の方々。影に日向に北星余市の行く末を案じ、さまざまな助言をくださる方々。余市町、地域の方々、広報活動で応援して下さる方、たった20名の教師ではやりきれない募集活動のそのほとんどを、そういった皆さんのおかげさまで、我々が「成長させてあげたい」と思う子供たちをここに導いてくださっていると、そう感じております。


3月19日(金)時点での新1年生受験者は87名という数字になっております。2年生から頑張りたいという受験者は7名。3年生からという受験者は3名です。

【うれしい電話】
分かち合える喜び

joy

先週の金曜日に学年末の修了式を迎え、今週に入ってから追試・補修期間が始まっています。教員は追試・補修をやり、次年度の分掌に向けての準備に取り掛かる時期。入試も大詰めを迎えつつあるわけですが、今週の頭から予約面接試験がぽつぽつと入っています。試験と追試・補修の合間を縫って、私もそれまでの入試委員会の資料を整理して、次年度利用しやすいようにカスタマイズしています。


掃除を始めると、結構、泥沼にはまるタイプの人間でして、2003年からの画像ファイルがCD-Rに焼かれて、棚からあふれんばかりの状態になっている。目が行ってしまった僕の負けでした。外付けHDDにそれらをコピーしてあふれるCD-Rはお蔵にインさせてしまおうと思い立ったが、、、吉日(?)。


CD-Rという文明の利器も、出始めのころは「手軽でいいね!」「大量の画像をこの一枚に保存できるし!」なんて言っていたはずですが、気がつけば100枚を超え、目的のものを探すのに一苦労。使わないものはしまってしまいます。その作業もすでに終え、明日からは何をしようかわくわくしている状態です。


今日はそんなことをしていた私に嬉しい電話が。19:00頃、学校の電話が鳴り、喜び勇んで受話器を取ったところ、栃木県にある適応指導教室の方から。


先頃、卒業を迎えた生徒が適応指導教室の方のところに、卒業の報告に伺って、北星余市での生活や思い出を語り、その成長を嬉しく思ってお電話下さったとのこと。昨年度に私自身がその子の学校の様子を伝えにお伺いさせてもらったときにお会いしていて、その風景が。とても素敵な適応指導教室だったんです。田んぼの真ん中にあるんですけど、昔ながらの家で(かやぶき屋根だったかな)、囲炉裏があって、とにかく暖かい。人も場所も。


そのお電話は、本当にうれしい電話でした。彼自身が3年前に比して、たくましく成長した、と。3年前以前の彼の姿を我々は見ていないわけですが、当時を知る先生はその3年後の姿をそう評価して下さった。


僕がうれしいのは「我々教員のして来た事がうんぬん、、、」というのではなく、「北星余市」という場が、つまり仲間、クラスメイト、先輩、後輩、下宿の管理人さん、PTA、教師、地域の方々、この土地柄など、全てのものがうまく機能して、その中で彼自身が頑張って成長したこと。そして、その喜びを、彼を知る人と分かち合えた事。




心がとても喜んだ一日の終盤でした。

【私の書棚より】
下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉

内田 樹 (著)
文庫: 280ページ
出版社: 講談社 (2009/7/15)
発売日: 2009/7/15


 
『下流志向』というと「格差社会の話か?」と思うのですが、〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 というサブタイトルが中身です。
 
学ぶということはどういうことか。内田先生の深い洞察は、長年違和感を感じながらも閉じていた僕の眼を開いてくださいました。
 
『起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです』
 
 
「先生、これは何のために学ぶんですか?」「なんのために、こんなことしなきゃいけないんだよ」そういう風に言われた経験のあるお父さん、お母さん、そして僕の仲間である先生たちには、ぜひぜひ読んでほしい本です。そうでない人にも是非。
 
自由、そして自己決定と自己責任。「格差」の正体ってなんなのか。勉強になった一冊です。

【私の書棚より】
それが、「学校力」なのである ~ 尾木直樹


Photo by Hamed Saber


とくに小中における学力とは、学校や先生、友達が大好きだというヒドゥンカリキュラム(隠れた教育)の力によるところが絶大であり、そこがふくらめば、結果的に、子どもたちの生きる力も友達や先生を信じる力も太くなるはずである。自然に意欲的になり、学習の意味や生活の目的も明らかになって、得点力もアップする。それが、「学校力」なのである。数量的学力の向上ばかり目指す「塾力」とは異なる点を忘れてはなるまい。


【 『新・学歴社会がはじまる』 尾木直樹・著 】


【先輩は希望の光】
予餞会の準備が始まります。

19日から3学期が始まり、生徒たちも元気に余市に帰ってきました。生徒たちはこれから卒業生を送り出すための予餞会の準備に取り掛かる時期です。お世話になった先輩を送り出そうと、毎年、思いのたくさん詰まった心温まる送り出す会、先輩の卒業を祝う会、先輩の未来を応援する会が開かれます。


なぜ、そんなに先輩に対しての思いがそこにあるのか。それは、先輩と後輩の間に築かれる関係が、そうさせているのだと思います。

北星余市高校において、先輩たちはよきお兄さんであり、よきお姉さんです。先輩といっても、自分と同じ年の先輩もいたり、年下の先輩もいたりするのですが、それでも先輩は先輩。最初は、一般的な高校にはないこの感覚に戸惑う生徒たちですが、そのうちになれてきたりします。


北星余市高校に入学するということは、子供たちにとって、とても不安なことだらけだと思います。家から離れ、下宿生活を送る。そこでは今までの甘えは許されないわけです。特に人間関係のトラブルによって不登校を経験した子供なんかは、どんな人が集まっているのか、そこで過去と同じようなトラブルが起きたらどうしたらいいのか、そう不安になることと思います。やりなおしをかけて、自分の人生に真剣に向き合ってきていればいるほど、不安なことでしょう。「もう、失敗は許されない」強迫観念にも似た不安と恐怖を振り払うように前に進もうとする。


そうして入学した1年生にとって、先輩たちは希望なんです。未来の自分の姿を想像させてくれる希望。明るく、元気そうにしている先輩たちを見て、自分もこうなりたい、なれるのかな…と考える。けれど、時間がたって話を聞いてみたら、先輩だって1年生の最初のころはそうだったと知る。北星余市高校で学校生活や下宿生活を送るなかで、苦しみも喜びも、沢山の人に支えられる中で味わいながら、そんな姿に成長しているのだと知っていくわけです。それはまさに希望です。



Photo by Sam Ilic Photography - STAGE88


そして、そんな先輩たちは後輩の話をよく聞いてくれる。見ていて本当にやさしいな、、、そう思います。それは、先輩たちが過去にそういう痛みを経験しているからなのでしょう。1年生の最初に不安だった自分の痛みを知っている。入学前に不安だった気持ち、でも自分の人生のためにそれを振り払うかのように一歩踏み出した勇気、そういうのを知っている。同時に、そんな自分に優しくしてくれた先輩の温かさも胸に刻まれている。だから、2・3年生にとって、入学したての後輩は、「他人」であるけど、「自分」なんだと思います。


北星余市高校の先輩と後輩の間の底流に流れている関係、普段バカなことを言い合ったり、ふざけたことを話しているようで、実はそういう関係がそこにある。


そんな先輩たちだから、卒業を心から祝うことのできる予餞会が毎年開かれる。そして、先輩たちが後輩たちに心から感謝して卒業していく姿が見られるのだと思います。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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