クラスで頑張るあなたへ。

石を投げれば、波紋が生じる。生じた波紋を、邪魔者扱いし、面倒臭がる者もいるけれど、それを待っている人もいる。誰かが何かを言わなければならない時がある。それは気がついた人の使命なのだと僕は思う。それを僕は舞い降りてきたものと表現する。

舞い降りてきたものは、貴重なものだと思う。

その舞い降りてきたものが、独りよがりなものではないかと不安になることもある。的を射ているものか、不安になることもある。そういうとき、人に相談するという行動を思い浮かべると思うが、中でも、理解してくれるかどうか、自分と同じ思考の人かどうかで選ばず、「信頼できる人」に相談するといい。

目的が何であるか。

自分の気持ちをわかってもらえる人が居て欲しい、自分に同調する人を作りたいという目的であれば、理解してくれる人、同じ思考の人が良い。それはとても大切なことだ。人は生きていく上で、そういう存在は絶対的に必要だと思う。

一方、物事を成り立たせるということが目的であれば、話は違う。集団において物事を成り立たせるには、自分とは異質の者たちと手を組まねばならない場面が出てくる。

そのとき、自分とは違う質の人たちのものの見方もできたらいい。自分とは異質であっても「信頼できる人」というのは、そのヒントを与えてくれるものだと僕は経験上そう思う。

人に相談するということ、それは自信のなさでも、弱さでもない。それは、確認をするという大切な行動だと僕は思う。そうして、修正も含めて行っていく行動は、大切であるからこそ。行動と思考はその証明である。僕はそう思う。だから、とても尊いことをしているのだと思う。

相談すると迷うこともあるだろう。けれど、結構な確率でどこかで舞い降りてくるものがある。ギリギリのギリギリまで迷い続けることもあるけれど、最後に下した判断、それがある意味、これまで思考や行動を積み上げてきた自分の意志だ。だから、それを大切にしてほしい。

そのとき、どっちを向くかで人は変わる。待っている人の方を向くことができるかどうか。そこを信じることができるかどうか。

ひとつの勇気も必要になるだろう。恐れもあるだろう。苛立ちもあるだろう。たくさんの負の感情が生まれることだろう。波紋は混乱も生む。その混乱も含めて、自分の意志との向き合いである。

そう、大丈夫。向き合っているのは他の誰かじゃない。自分と向き合っているのだと僕は思う。恐れることはないと思う。それは大切な自分と向き合っているだけだと思う。待っている人とともに協力し、あるいは反対側にいる人をも受け入れつつ、一定の形となっていく。


その波紋は、最後、きっと良い方向に行く。

期待。

期待されるって、嬉しいと思う瞬間があります。その期待に応えられそうな自分がいたとき、その嬉しいに気持ちが素直に反応するものです。けれど、応えられなさそうな期待をかけられたとき、少しだけ苦しく感じる自分がいる。応えたいけれど、応えられないもどかしさ。無理をしたって先は見えている。そもそも無理をするつもりもないし、その期待の存在しない関係でありたいと願うときがある。そんなとき、どうしたものかなぁ、と。

かけられる期待というのは、自分と相手の関係において、そもそも、相手が見ている世界。期待されて、嬉しいと感じる瞬間があるのは、相手が相手の世界において、自分をそう見てくれているということに反応するのであって、しかし、次の瞬間、自分がよく知っている自分を見つめ、「相手の世界の自分」と「自分」に乖離がありすぎるとき、相手が待っていることに応えられないことへの自責の念が生まれるものなのだと思います。

期待をかけてもらえるだけありがたいこと、喜びなさいよ。

そんな言葉をよく聞くけれど、これは期待をかけられた側が自発的に思うことであって、かけた側が言ってはならない言葉なのだと思います。ありがたくないなんて一言も言っていない。喜んでないとは言っていない。かけられた相手が、その先のことで、困ってしまうのかもしれないという想像を、期待をかける側はすべきだろうと思うのです。

期待というのは、自分と他者との関係があるから生まれるわけですが、性質として、その人の主観的なものの見方であるという要素を濃くもっていて。一方、人と人との関係というのは一方の思いだけでつくれるものではないわけで。だから、期待をする側は、それが至って自分の世界を見ているのであって、その強烈な思い故に、相手をおろそかにしていやしないか、相手を見落としていやしないか、苦しめていやしないかを振り返る必要があるのだと思います。

あなたにとって大切な相手だから、期待をかけているのでしょう。大切な相手のであれば、まず、相手をしっかりと見つめて、掬うことが先なのではないのでしょうか。それとも、あなたは、あなたの世界の中の相手という像を追いかけているだけなのでしょうか。あなたは、あなたの世界に、あなたの思い描く通りに、相手を取り込みたいだけなのでしょうか。「そうじゃない」というのであれば、まず相手を見てあげて欲しいと強く思います。

そして、僕は、相手のかけてくる期待に丁寧に向き合っていきたいと思います。その期待に応えられないことも、丁寧に伝えていきたいと思います。その相手との関係を大切にしようと思える限り、何度でも。きっと、いつかどこかで伝わってくれるかもしれないと思いながら。思える限り、何度でも。

不登校を予防すること

とある行政の方に「いじめにあった、教師に心ない言葉を言われたという明確な理由による不登校は別として、なんでかよくわからないけれど、不登校になってしまったという子どもが多い。これをなくすにはどうしたら良いと思うか」と質問された。

「すごい質問をされるなぁ」と思いながら、よくわかるその人の思いを受け止める。不登校に陥った子どもも親も悩み苦しむ。「そんなもの、世の中からなくなってしまえ!!」という祈りからくるんだろうと思う。その祈り、理解はできる。

質問した方は、不登校を経験した子どもたちを沢山受け入れて来た経験のある北星余市の教員だから、何か魔法のような解決方法があると思ってくれたのかな。でも、そんなものがあれば、全国で10万人以上いる不登校問題はとっくに解決している。

「不登校を予防するにはどうしたらいいか?」という問いを考えると、端的に「予め行きたくないと思う出来事をなくし、行きたいと思う学校にする」という答えになる。

けど、そんな単純な話でもない。

そもそも学校に行かないという選択をする子、行きたくても行けなくなる子には、その子独自の様々な要素が絡んで、そういう状況が生まれている。学校教育制度、学校教育環境、社会状況、地域の特性もあるし、その子の生育歴、育って来た環境、偶発的な出来後、、、そういった様々な要素が絡んで不登校が生まれている。そういったことを考えたとき「よくわからない理由で学校に来ないという現象をどうすれば予防できるか」という問いに具体性をもちつつ一般論として応えること、マニュアル化することは難しい。

まずは、そういう自覚を持つことから。そこからスタートなんじゃないかな。

いうことをきかない子どもたち。そもそも、いうことをきかそうというのが間違っている?

ふとノートを見返していたら、気になるメモを見つけました。「非行」を考える全国交流集会でのメモです。「非行」を考える、、、っていうか、人ってものを考えさせてもらえます。毎度のことながら。

今日は「なんとかしようとすればするほど、自分の首を絞めてしまう」というお話。

この集会では、子どもが「非行」をしていて、悩んでいる真っ最中の親御さんたちだけでなく、その悩みがある一定解消されて、悩まれている親御さんたちを当事者の立場から支えようとされている方たちも多く参加されているんですね。

そんな先輩ともいえる方たちがこんな発言をされていたんですよ。

  • 子どもがやりたくないと思っていることを続けさせてしまっていた。
  • 自分が学歴主義に捕らわれてしまっていた。その路線に子どもを乗せようとしてしまっていた。
  • 「この人はこういう人だ」「あの人はこういう人だ」と自分の生きてきた価値観で人を決めつけて見てしまっていた。「あなたはこう生きねばならない」と子どもに自分の価値観を押し付けてしまっていた。今となってはその価値観はとても狭いものだったと思う。
  • 子どもは子ども、私は私。でも、家族だから見捨てない。そう思えるようになってから、子どもとの関係性が変わっていった気がする。

そして、その話を聞いていた、山梨県笛吹市で不登校の親の会「ぶどうの会」をされている鈴木さんがこんな感想を話されたんです。

「なんとかできないか、なんとかする方法はないか…と足掻いているうちは良い方向にいかず、子どもは子ども…私は私…と親自身が変わると、意外となんとかなることが多いのは不登校も一緒。ああ、やっぱり共通しているんだなぁ、、、って思いました」

これって価値観の違いからくる話なんだろうなと思うんです。親と子の。というか、人と人の。

自分では何もできず、判断基準もなくて、与えられたものを享受しながら、感じ、考え、成長していくのが人の育ちのはじまりですよね。そうして生きていけば、自分の感性や価値観が育って考えるようになる。そうすると自分の意見を持つようになる。おかしいものをおかしいと思うようになる。自分が正しいと考えるものができる。実際に正しいかどうかは別として。

これって、子供に限らず、大人もそうですよね。誰もが新人の頃は上司の指示を受けたり、先輩のアドバイスを受けて、不安も抱えつつ、考えながら、一つ一つをこなしながら前に進んでいく。一つクリアするごとに、感じるものがあるし、考えることが出てくる。一生懸命そこに向き合えば向き合うほど、気がつけば「自分」を持つようになってる。それに似ている気がします。っていうか、人の育ちってそういうもんなんだろうと思います。

そう考えた時「親だから子どもにいうことをきかそう」っていう、つまり無条件に「従わせようとすること」は、自ら感じ、考え、行動する人間に対しては、不可能なことなんだと思います。自分が感じて、考えて、納得が得られないと行動はしないし、行動を止めないでしょう。

一概には言えない色々な理由で、このような状態になってしまったら、それはもう相手の価値観を尊重する以外はないのかもしれません。「じゃぁ、やってみなよ」っていう。

ただ、何もしないで「やってみなよ」じゃない。一方で「僕はこう思うけどね・・・」という姿勢も保つ必要があって、これがあるから、失敗しても気づきがあるというか。はじめての道、目的地までたどり着くのに、自分が決めた道を進んだけどそこが行き止まりだったとき、「そういえば、あの交差点にたったとき、「こっちだと思うよ」と言ってくれた人がいたっけ・・・」という出来事があったかなかったかは、大きな違いになると思うんですよね。









「教え子に私的メールやLINEダメ?…15県教委で禁止」これやられたら、うちの学校では教育はできませんね。

全く意味がわからない。驚き桃の木山椒の木、ブリキにタヌキに洗濯機並みの支離滅裂さ。
教え子に私的メールやLINEダメ?…15県教委で禁止 
教え子へのわいせつ行為で処分される教員が後を絶たない中、生徒との私的なメールのやりとりを禁止する教育委員会が相次いでいる。47都道府県のうち、15県教委が禁止していることが朝日新聞の調べでわかった。
 調査は2月、教員と生徒間のメールや、「LINE」などのサービスを使った私的なやりとりを禁止しているかを、都道府県教委に尋ねた。3割強の15県教委が、通知などで原則禁止していると回答したほか、20以上の教委で私的なメールをしないよう研修で指導したり、注意を呼びかけたりしていた。
 各教委が私的メールに神経をとがらせるのは、やりとりが続くと、女子生徒に対するわいせつ行為に発展する場合があるからだ。http://www.asahi.com/articles/ASH2S7GR6H2SOHGB01K.htmlより

2002年あたりからわいせつ行為で処分を受けた教員は150名から200名の間を行ったり来たりすれ違い。もうかれこれ10年以上経っている。私的なやりとりを禁止したからって防げるものでなかろうに。

というか、そもそも「私的」ってなんだ?個人的に関わることか?公でないことか?プライベートか?てか、個人的ってなんだ?公って、プライベートってなんだ?子供の人生に関わる営みにおいて、そんなこと考えたこともない。

自分が子どもたちに向き合うときを考えると、個人的に関わることだって、公でない場での公でないこと、プライベートでのやりとりだって、山ほどあるぞ?僕も含めてだけど北星余市の先生達なんて、生徒の寮下宿を訪問して、生徒の部屋で一対一で『お話しホーダイ』ですよ。制限を設けた環境において解決される問題ではなく、教師としての資質の問題でしょう。しつこいようだけど、逆に生徒との信頼関係を作る上で、公的だとか私的だとか考えたこともない。そんなこと関係なく人として関係を築き上げていかないと信頼関係なんてできないもの。そんな制限作られてしまったら、たまったもんじゃない。なまくらで戦えっこない。

問題は公的か私的かの区別ではなく、メールやLINEという手段の問題でもなく、教え子へのわいせつ行為をはたら人格であって、それをどうするかが問題でしょう。そもそも、教え子を性の対象としてみること自体、教育をなんと心得ているか、、、って問題だと思うんですよ。自分の一挙手一投足が、一人の人間の人生を左右する可能性があるのだという自覚が足りない。個人的なやり取りを禁止するとか、LINEやメールはダメ!とかいうのもいいけれど、そんな教育者としての「いろは」の「い」を普段から教師集団として共有することから始めた方が良いのではないでしょうか。






5年ぶりの再会。

「非行」を考える全国交流集会が終わって、帰ろうとしていた時、会場から出たところで一人の若者に声をかけられた。

「北星余市の田中先生ですよね?」

は?はぁ、いかにも?だが、、、ん、、、あなたはだれ?

わからないので率直に聞いてみたら、なんとその若者、5年ほど前に北星余市に学校見学に来たことがあって、僕が対応していたのだそう。

当時は自由奔放な生活を送っていて、親にもいろんな人にも迷惑をかけていたらしい。地元には置いとけないと思った親御さんが、必死の思いで北星余市に連れてきたんだって。本人は「旅行に行こう」とだけ誘われてついていったら、学校にいたとか、笑。

その学校見学の際に、僕が対応したことを覚えてくれていて、なんだか嬉しい。なんで覚えてたんだろう。

その頃はまだ遊ぶのが楽しくって入学にはつながらなかったけれど、それから2年くらい自由奔放な生活を続けて、失敗もして「ああ、これじゃあかんな」と一念発起して、勉強したんだと。今は、早稲田大学に入って、大学生やっていると。なんと、やっぱりエネルギーあるよな、そういう子って。やるときゃやる根性があるんだよね。すごいと思う。

今は少しでも自分の経験が役に立てられれば・・・と思ってforpassっていう、自身の経験を書いたサイトを開いたり、こういう場に出てきているんだとか。その考えもまた立派。

なんか、そういうどこで縁があるかわからない、こういうのっていいよね。

なんて思った「非行」を考える全国交流集会の終わりでした。

教育活動は、わからないことだらけだけど、わかりやすいたったひとつのことがある。

教育という営みは、本当によくわかりません。今、ここでやっていることが、いったい何になるの?って感じです。教師やって15年経ちますが、未だにその感覚は抜けません。

「教育」を大辞林で引っ張ってみると、
「他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。」
 って書いています。

この「望ましい方向」とはいったいなんなの?これを見定めるのは本当に大変なこと。

そして、例え「これが望ましい方向だ」と定めたとしても、その方向へ導く際の方法に、正解というものがない。

「この言葉をかけてあげたら、この子は、必ずこの方向に進んでいく」そんなマニュアルのような、公式のようなものはない。

「意図的な働きかけを行うことによって」と書いてあるけど、例えば、応援することを意図として「がんばれよ」と言葉をかけても、その時の状況や、それまでに育ってきた環境や経験、その言葉を発する人間との関係はもちろん、その言葉を発する人間のそのときの口調や場合によっては天気によっても、言われた側がどう受け取り、それがその後、どう影響していくかなんて言うのは、大きく変わってくる。

もっといえば、「がんばれよ」と言われた人間が、例えばそのとき気分を害したとしても、その次の瞬間に、何かがひらめいたりして、前向きに考えることだってある。

自分の身に置き換えて考えたとき、だれでも体験した事があることだと思います。

「なんだかわからないけど、小学校から学校に行っていなかった子供がこんなに輝くようになった」

「あれだけ世の中に背を向けていた子供がこんなに世の中に向き合うようになった」

私の学校にはそんな事例は腐るほどあるけど「何をしたら、そうなったの?」と聞かれると、ひとつひとつは説明できない。

一人の人間が、高校時代の24時間365日×3年をどう過ごしたか、もっといえば、うちの学校にたどり着くまでの十数年、二十年近くの時間をどう過ごしたかが複雑に絡み合っていることなので当然ですよね。

いつどこで誰とどんな出来事があって、それまでの過程はこうで、どんな些細な言葉だって、場面だって、人を変える可能性がある。その一つ一つ積み重ねられたものの上に、その人の今があるわけで、それを具体的に説明しきることは、不可能と言っても過言じゃない。

そう考えたら、教育という営みは、すべてを言葉で説明しきることのできない、いや、むしろそのほとんどを言葉で説明することが困難なものなのかもしれないなぁ、と思います。

ただね、ひとつ間違いなくいえるのは「人の思いというのは必ずいつかどこかで花開く」ということ。

とふと思った今日でした。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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