Archive for 2012

出来事を通じて得られること。

今日は2012年度の第2回学校見学の日。10組23名の方が参加してくれた。中学校の先生が引率してきてくれた組が2組も。今までそんなことなかった。昨年、余市町内の中学校の先生が引率して参加してくれたが、2年連続で中学校の先生が来てくれたのは、「北星余市」への認識というか、イメージがかわってきてくれたということなのかな。

10:30スタートで冒頭のあいさつをした。2回目の学校見学会では、トンボ玉というガラス玉をつくるのだけど、「楽しむコツは、いいものをつくろうとしないこと」という話をする。「いいものをつくろう」「誰かにほめてもらえるものをつくらないと」と思って創ったって、なんにもいいものはできない。そこには中身のないものができあがるような気がする。

市場経済の場においては、消費者が認めてくれるいいものをつくらないと売れない。だから、お客様が望むものを創らねばならないという前提がある。しかし「人の望むものは何か」ばかり追いかけているうちに、気が付けば大切なものを失っているような気がするのである。

ガラスを火であぶるという体験をしたことのある人は少ないだろう。ガラスを火であぶるとどうなるのか、例えば、そういう自分の中に無意識にあるはずの問いに目を向けてほしい。溶けるのか、色は何色に変わるのか、赤く燃えるのか、オレンジか、はたまたガスコンロのように青くなるかもしれない。そうして、あぶったらどうなったか、その場で起こる変化を楽しんでほしい。ガラスを火で温め、急に温度をあげるとガラスは「パチン」といって飛び散る。予想もしないそんな現象に出くわしたとき、そういう変化、出来事を楽しめる。「なんでだろう」と素直に思える。そういう人は強いと思うし、得るものも大きいと思う。それには「認めてもらえるいいものをつくらないと」という気持ちは邪魔な気がする。ガラスは急に熱すると割れるものであって、水飴状にグニャーンとさせるには少しずつガラスを熱していくものなんだということを理屈と体で感じる。

疑問に思い、自分なりに推測し、目の前に起こった出来事をありのままに受け止めながら考えを巡らせる。その流れを楽しむ。そういうことを多く経験し学びを得た者が、豊かな生き方のできる人間なのだと思う。僕は、そういう体験を子どもたちにさせてあげることがいいのではないかと思っている。なんか、そういう企画、考えようかな。

中学生くらいの子ども達のなかに、そういう生きる楽しみ方を知っている子がどれだけいるか。成績のいい子どもの中だとしても、少ないと思う。まして、学校の勉強が苦手な子なんかは、「俺は勉強ができないから、ダメな人間だ」と思っている子は多い。もったいないと思う。

という気持ちを込めて話したけど、伝わったかな。ま、そこまで話してないから、伝わってないか。

それにしても、生徒たちが参加者の方を引率してくれたのだが、この子達も本当によく成長したな・・・とあらためて思った。学校の説明なんて、僕の説明なんかより全然わかりやすかったし、気遣いもよくよくできてた。素敵な子たちだよ、本当に。お互い足りないところを補い合って、協力し合って進めてくれてた。こんな素敵な子たちも、3年前までは暗闇の中を歩いていたんだと、世の中にはそういう素敵なものを潜在的に秘めていながら、今、暗闇の中で生みの苦しみをしている子たちがいるんだと思うと、北星余市は本当に大切にしたい場所だと、彼らをみて、あらためてそう思った秋晴れの一日だった。



スクールソーシャルワーカーとは  ぶどうの会 No.51より


スクールソーシャルワーカーは学校においてソーシャルワークを実践する人で、基本的な姿勢は次の「ソーシャルワーク」の定義にあります。
「ソーシャルワーク専門職は、人間の福利(ウェルビーイング)の増進を目指して、社会の変革を勧め、人間関係における問題解決を図り、人びとのエンパワーメントと開放を促していく。ソーシャルワークは人間の行動と社会システムに関する理論を利用して人々がその環境と相互に影響しあう接点に介入する。人権と社会正義の原理は、ソーシャルワークの拠り所とする基盤である。(IFSW,2000,7)」(IFSW:国際ソーシャルワーカー連盟)
ソーシャルワーカーは人がより良く生きること(ただ単に困難に直面している人を保護的ンい支援するだけではなく、より良い状態を維持できること)をめざし、社会変革を進めていく人です。そしてまた、「人権」や「社会正義」という原理を大切に活動するのです。
スクールソーシャルワーカーにとっての「人権」とは「子どもの権利条約」や児童福祉法の第一条から第三条にある児童福祉の原理であり、権利が侵害された状況にある場合は速やかにその状況を改善し、権利を保障していくことが役割です。また、「社会正義」は「社会のすべてのメンバーが同じ基本的権利、保護、機会、義務、社会的恩恵を得ている理想的な状態」(ベーカー:Baker.R.L.)というようにすべての子どもが平等にその人らしく生活できるよう不平等な環境を改善するために社会の制度や教育の仕組みに働きかける役割もスクールソーシャルワーカーは持っているということです。

ぶどうの会 No.51 子どもの権利のために『支える』『つなぐ』『つくる』スクールソーシャルワーカーという仕事 屋マン試験教育委員会 富士東部教育事務所 スクールソーシャルワーカー 渡辺実子

NPO法人青少年就労支援ネットワーク静岡、10周年記念イベント、宮本みちこ先生の講演より


〇2002年の著書「若者が『社会的弱者』に転落する」で、若者はわざわざ自由を謳歌するために非正規雇用の道をわざわざ選んでいるという見方は間違いだ、と書いた。

〇行旅死亡人問題というのがある。行旅死亡人とは、飢え、寒さ、病気、もしくは自殺や他殺と推定される原因で、本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すもの。この行旅死亡人の中には、働き盛りの年齢であるべき現役世代にもいる。
NHKでそういった人たちの過去をたどっていく番組を放映した後、若者たちから「明日の自分を観る思いだ」という反応が多数帰ってきた。

〇就労支援というのは「職につなげればよい」という話ではない。

〇働き盛りの若者が過酷な労働環境の中で体調を崩し、離職。その後ホームレスになるという話は後を絶たない。

〇かつては婚活や就活というのは、縁故、つまりおせっかいによって成り立っている面も多くあった。その点、静岡方式はおせっかいなおじさんおばさんによって活動が保障されている。今の日本の社会は「最終的には本人が決めることだから」と口にすら出さない。

〇行政組織が縦割りで有効に機能していないという課題がある。

〇生活保護の受給率が急増している。戦後最大。中でも一番増加しているのは60代だが、30代・20代の受給者が大幅に増えている。働ける人たちが働けないという現状。こういう人たちが生活保護を高齢期に受給するとなると、20兆円もの予算が必要となってくる。これはこれで問題だが、それ以前にはたしてそういった人たちがここまで生きられるかどうかという問題もある。

〇よりそいホットラインというのがある。常時30~40もの回線を用意し、相談を受けているが、常に鳴りっぱなしの状態である。この日本の状態は壊れていると感じている。

〇義務教育における学力とはなにか。後期中等教育を修了することは大切なことだが、単に卒業証書を与えるためではない。

〇「将来は明るいのか?」というアンケートに、日本は5%、フランスは26%しかYESの回答がない。「終身雇用のスタイルをとっている国は低い」とする説がある。「グローバル経済の流れの中で、終身雇用のスタイルを保つ」ために、終身雇用の制度の周辺から崩していっている。そのことに問題があるという見方がある。若者はその制度の中核に入って行けるかどうかが、鍵となる。しかし、周辺に追いやられているという実態がある。それが資格競争を激化させているという見方もあるし、進学プレッシャーが両国ともに重い。能力主義、メリトクラシー(個人の持っている能力によって地位が決まり、能力の高い者が統治する社会)。

〇現在働いているが、それが「教育訓練」につながっておらず、キャリアの積み重ねになっていない。読み書き計算などの基礎的な学習への支援、資格試験の勉強。「空間を埋める橋」が必要である。学び直しの必要な若者がいる。本質的な問題は進学させるかどうかというところではない。



子どもたちの育ちあい~現代の思春期・青年期を考える~ /エルムアカデミー より。『自己肯定感情』を育てる(坂口先生)のことば。


子どもたちの育ちあい~現代の思春期・青年期を考える~ 発行:エルムアカデミー

『自己肯定感情』を育てる
坂口
今の子どもたちを見ていて一番危惧していることは自己肯定感情が低いことです。自分のことを肯定できないと他者との関係が切り結べない。他者の先には社会がある。その社会とどう切り結んでいけばいいのか、わからなくなっている。だから、子どもたちが他者と、そして社会とつながり、自分がどう生きていくのか、を考えるときの下支えになっているものが自己肯定感情です。
どのようにして自己肯定感情を育てていくのか。エルムで今、大事にしているのは自分を他者に向かって表現すること、自己開示をすることです。ありのままの自分の姿、ときとして、なかなか人に言えないようなことを他者に語り
それが受け入れられる。そして何らかの形で評価される。この一連の流れが非常に大事です。どんな場面でも、とにかく子どもたちが多くの他者と関わりながら、自己肯定感情を得るのかという観点を握って離さないように実践を組み立てています。
思春期の子どもたちは、だれもが「誰かに自分を知ってもらいたい」「相談したい」「一緒に考えてもらいたい」という気持ちをもっています。
思春期に入り自分のことが少し客観的に見えると、今まで自分の中で意識もされてこなかった自分のマイナス面が顕在化していきます。それが見えてくると「自分って何だろう」と、自分がわからなくなり、苦しくなります。だから、本当は誰かに「言いたい。伝えたい。わかってもらいたい」のだけれども、今まで一番身近にいた親とは、思春期特有の距離をとるために、本当のことはなかなか言えません。
学校の仲間にもやっぱりなかなか言えない。今の学校には排除の論理があるので、ちょっとでもみんなと違うことをするとすぐにハブられて、はじかれてしまう。本当の気持ちがいいづらい。だから、孤独になっていく。表面的には盛り上がって、仲良くしているように見えても、本当はすごく孤独で、「どうしたらいいんだろう」と、自分の気持ちを知ってほしい思いがある。一方で、「誰にも知られたくない」という矛盾する気持ちもあります。それは、子どもたちが劣等感、自己否定感情を抱えているからです。告白する、誰かに伝えるというのは、自分をさらさなきゃいけない。傷口をさらさなければいけない。それはものすごくいたい。「これ以上傷つきたくない」、だから「触られたくない」「いいたくない」という気持ちなんです。
ここからが本題です。子どもたちが僕ら教員に自分の本当の気持ちが言えた、少し自己開示できた。でも、これだけでは子どもたちは満足しないんです。落ち着かないのです。話を聞いてあげても、それは一時的に落ち着くだけであって、また元に戻っていく。なぜかと言うと、とにかく子どもたちの頭の中の大部分を占めているのは、やっぱり友だちだからです。思春期では友だちが決定的です。「友だちに自分がどう思われているか」「友だちと比べて自分はどうなのか」」ということです。「周りから自分が変に思われるんじゃないか」ということを、子どもたちはものすごく恐れている。
ですから、自分の抱えている者を友だちに自己開示できて、友だちから受け入れられて、友だちから評価を受けないと、子どもは本当の意味で安心できないし、自己肯定感情にはつながらないのです。
でえすから、同世代の友だちとどうつなげるか、同世代の友だちにどういうふうに自己開示させて、それを受容させていくか、ということをいつも考えています。

子どもと保育が消えてゆく ~「子ども・子育て新システム」と保育破壊


現在会期中の第180回通常国会で、子育て新システムについて一連の法案が提出されている。

第180回 通常国会:http://www.cao.go.jp/houan/180/index.html

先日、名古屋市で弁護士をされている川口創先生(名古屋第一法律事務所所属)から、一冊の本が送られてきました。

子どもと保育が消えてゆく ~「子ども・子育て新システム」と保育破壊


「幼稚園と保育園が分かれていて非効率な状態を効率的に」「待機児童の問題を解消できる」なんてことで一時期メディアなんかにも取り上げられていたけれど、今は消費税の論議に紛れ込まされて見えなくなっていますね。

この「子ども・子育て新システム」そんないい話ではないようです。しかも、議論がまとめられての法案提出でもない。そこら辺の経過は、このサイトをみると分かりやすいと思います。

子ども・子育て新システム検討会議ウォッチング:http://kosodateouendan.sblo.jp/

保育はとても重要な営みです。子どもの基礎の基礎をつくる、本当に大切な営み。もう、国会に法案が提出されてしまっていますが、これによっていったいどうなるのか、知っておく必要があると思います。

読んでほしいと思う一冊です。




(一部抜粋)
この国では、「市場原理を入れると質が確保される」ということが、あらゆるば面でずうっと言われてきました。仮に保育の場面で「市場原理」が原則となれば、英語教育とか、体育教室など、さまざまな「オプション」を入れて、他の保育園と選別化を図ろうという保育園が出てくることは予想できます。こういった「オプション」は、親や第三者にも「やっていますよ」とアピールしやすく、また親から高い保育料を取りやすいでしょう。そして、保育を市場化することによって、こういった「オプション」をつけることが「高い質」だという風潮が、さらに強まる危険があると思います。しかし、娘の誕生会を通して、「保育の質」というのは、英語教育とか、そういったところにあるのではなく、保育の基本に忠実に、一人ひとりにしっかり目を書け、大事にしていくところにあると思いました。しかも、子どもは一日で「育つ」わけでなく、時間をかけて育つのですから、その育ちを年単位で長期的に見てくれることが大事です。
新システムが通れば、至上主義が原則となります。そこでは「コスト意識」が最優先とされ、一人ひとりに十分な手をかける保育はできません。また、キホンに忠実な保育をしていては、「高コスト」になります。人件費削減によって、保育士の入れ替わりも激しくなるでしょう。子どもを長期的に見てくれる保育士がいないことは、親にとっても子どもにとっても安心できません。子どもは信頼できる保育士をつくることができず、不安定になってしまいかねません。「市場原理」では、今の保育の質が逆に低下していくことにならざるをえません。
子どもたちは、いろいろな面をもっています。娘の通う保育円は、子どもたちのありのままをまるごと受けとめて、長い目で子どもの「育ち」によりそってくれています。何か問題行動があった場合には、一方的にしかりつけるのではなく、ときにはぎゅっと抱きしめて、時間をかけてその子どもの気持ちに寄り添ってあげることも大事だということを、ぼくは保育園から学びました。そういった保育を実践するには、時間もかかりますし、保育士と子どもとの間に時間をかけた信頼関係が必要です。しかし、こういった保育はきわめて非効率ですから、「市場原理」のなかでは「高コスト」ということになってしまします。新システムによって、娘の保育園などは「非効率な園」として、つぶれてしまいかねません。
現行制度だからこそできているすばらしい保育があります。この保育を壊すのではなく、より豊かにしていきたい。娘の保育園を通じて、心からそう思います。

そもそも「経済成長戦略」から生まれてきた新システムの議論が、子どもの視点に立って行われないのは当然です。こんな土俵での議論をしていても良いものは生まれてきません。新システムが待機児童解消に繋がらないこと、待機児童解消のための施策が十分ありうることはすでに述べました。多くの主要な点について、ワーキングチームの議論が二転三転しているにもかかわらず、法案を何としても通そうというやり方は、単に「拙速」というだけではありません。私たちの保育制度を強奪しようとしていることを、きびしく批判せざるを得ません。(中略)
子どもと親の共育ちの場としての保育園の機能や、地域のなかで保育園の機能を、どう活かし発展させていくかということこそ、求められる議論の柱なのではないでしょうか。そのために、子どもの生存や成長・発達する権利をしっかり支えるという点に軸足をしっかりおいて、親、保育園、地域、時事タイヤ国が、それぞれのもつ社会的資源を出し合って、どうすればよりよい保育を創っていくことができるか。そんな議論にこのブックレットが役に立てばうれしいと思います。
子どもと保育が消えてゆく ~「子ども・子育て新システム」と保育破壊より








競争の時代にいかなる教育を展開していくべきなのか。

競争は人間のパフォーマンスをあげるという人がいます。ふむ。

2012年4月1日の北海道新聞にこんな記事がありました。山梨県立大学、山本武信教授の文章。
「僕が企画した旅行プランが初めて実を結びそうだったんです。すると上司が僕の目の前で顧客に電話し、あの企画は欠陥があるので、自分のプランに乗り換えてくださいって言うんですよ。信じられなくて」
昨年、旅行会社に就職した教え子が悔しそうに話す。不況で業界のパイが縮小する中、1人当たり年間数千万円という売り上げのノルマが重くのしかかり、社員同士の足の引っ張り合いが激しいのだという。


これを読んだとき、内田樹さんのいつもの論調がぱっと頭に思い浮かびました。
子供たちを閉じ込めて、閉鎖集団の内部で相対的な優劣をつけて、相対的優者に報酬を、劣者に罰を与えるということをしたら何が起こるか。集団全体の学力が下がるだけなんです。必ず下がる。なぜかというと、閉じられた集団の中の相対的な優劣を競うのであれば、自分の学力を上げることと、まわりの学力を下げることは「同じこと」だからです。そして、自分の学力を上げるのと、まわりの子供たちの学力を下げるのでは、後の方が圧倒的に費用対効果が高い。だから、子供たちを競争的環境に追い込めば、子供たちは互いに争って、となりの子供たちの学習意欲を失わせようとする。必ずそうなる。
内田樹の研究室/平松さんの支援集会で話したこと
これは学力を競争で高めようとしたときに、いったいどういうことが起こるか・・・といったことを書いているのですが、まさしくこの構造が上の新聞記事の会社にも当てはまっていると思うわけです。


そして、それと同時に、この記事も思い浮かびました。
内田樹の研究室/雇用と競争について

いま、放送大学教授、宮本みち子先生の「若者が無縁化する: 仕事・福祉・コミュニティでつなぐ」 (ちくま新書) 2012/2/6を読んでいます。




この本の34ページから36ページにかけて、とても印象に残る、日々感じている社会構造、そして現状が記されていました。
労働から排除される若者
国際規模で競争を迫られた企業は、高い生産性を発揮できる労働者だけを選別し、それ以外の単純労務は機械化するか、外国人労働者を使うか、海外へ外注する傾向が強まっている。そのため仕事に就こうとする若者には、「早く、正確に仕事ができること」「複数の仕事を同時にこなすこと」「先々を見通しながら今必要なことを処理できること」「職場内外の複雑な人間関係に対処できること(コミュニケーション能力)」「高度な情報処理能力」が求められる。
今まで以上に、仕事は、キャリアを通じて能力や所得の向上が可能で、確実な将来設計が担保されるような職種とそうでない職種に分断され、それらは固定化する傾向にある。また、このような能力がなければ職に就くことができないため、能力のない一定の人々は労働市場から排除されてしまう。
そこから排除されないために、高い教育・訓練を受けようとしても、大きな経済負担を強いられるため、経済力や文化資本がない家庭に育てば、それらを受けることはできない。その上、教育・訓練を受けようという動機や意欲は、幼少の頃からの生育過程で内面化されるものであり、お金で解決できない根の深さがある。
大学を卒業すれば、先ほどの能力が身につくというわけでもない。就職活動では、個々人の性格や脂質や能力が厳しくふるいにかけられる。就職試験に100回失敗したという話を聞くと、不況であるというだけで説明できない深刻な事態を感じざるをえない。それでも、世間は、自己責任の一言で片づけてしまいがちで、深刻な構造上の問題が横たわっていることに気付かないまま放置してしまう。
障害学を研究する東京大学の福島智と星加良司は、障害者問題をあらたな視点でとらえ、「障害者だけでなく『ニート』や『フリーター』と呼ばれる人々の少なくとも一部は、新しい経済構造の中で生み出される『敗者』であることを余儀なくされることにより、市場における十分な価値評価を断念せざるを得ないと感じている人々」と定義している。
まさに、労働市場の二極化の圧力のなかで、人間の価値は貨幣による数値化された評価に晒されるのである。福島・星加がいうように、この社会は、労働市場における単線的で「数直線的」な価値序列システムに強く規定されていて、それに代わる価値を追求できる機会や資源を十分には提供できない(福島・星加2006)。そのため、労働市場から排除される若者は生きる場所さえ奪われてしまう。
例えば、冒頭に紹介した記事の「上司」だって「教えてあげればいいのに」と思うんです。「欠陥」があるなら、「おまえさぁ、こここうしないとまずいだろ?お客さんが困るでしょうよ。しかも、ここだって、こうすりゃ、もっといい企画になんのによ」とかなんとかいいながら、その「欠陥」を指示して改善してあげればいいんです。

内田樹さんは、上記、雇用と競争についてで、
「自由貿易の勝利は、最終的にどの国の国民経済にも「義理がない」多国籍産業の手に帰すだろうということである。」
「貧乏人たちの金を吸い上げて、一部の金持ちに集約させる。衆の輿望を担ったこの「金持ち」が他の金持ちたちとの国際競争に勝ち、回り回ってその金持ちが貧乏人たちに「収益の余り」を施すようになる、というシナリオである。鄧小平の「先富論」そのままである。」
と語っている一方で、
「国民経済というのは、端的に全国民が「食えるか」どうかという問題」
としながら、自由貿易と国民経済の仕組み、抱える矛盾をクリアに語ってます。

この会社に起きている仕組みは次元の違いはあるけれど、質的にはまったく同じものです。同じ会社の仲間であり、後輩である生産性の低い人間は、自由競争の名の下で敗者となる。しかし「先富論」が実現されることはない。それがたくさんの会社で起きている。そして、それは社会につながっている。それが宮本先生が書かれていることで表現されている。

国民経済的観点に立ち、「我々社員全員が「食えるか」どうかとう問題」のためには、生産性の低い後輩も育てないといけない。けど、「先富論」にたてばそんなことをする必要もない。

勝手に想像するに、きっと、その先輩だって、後輩を育ててあげたいという気持ちはあるでしょう。そうすることが後々、自分にも帰ってくる。豊かな会社になる。そんなこと、心と頭のある人ならわかっているでしょう。わかっているけれど自分もそうしないと競争に勝てない、生きていけないという状況にあるのだろうと勝手に想像します。 しかし、この上司のとっている行動は、結果的に宮本先生のいう「能力のない一定の人々は労働市場から排除されてしまう」ことにつながる行為を、入社1年目の後輩に対してしているわけです。こうしたことが、日々、色々なところで行われている。

つまり、競争とはそういうことなんだと思います。同じ目的に向かって勝敗、優劣をきそい合うことが、競争です。勝つ者がいれば、負ける者がいる。負けたものは排除される。自由競争なんだから敗者は努力が足りないし、敗者になったって、努力をして、また戦いに挑むチャンスがあるという言い方もあります。しかし、それは現実的ではない。すべてが平等であるという前提なら、一万歩譲ってよしとしましょう。しかし、そもそもすべてが平等であるということなどありえない。例えば、この新聞の例に上がっている上司と入社1年目の人間を比べたって、平等なんかじゃない。

高校という3年間をすぎると、私たちは子どもたちをこういう社会に放たねばならなくなる。私たちが子どもたちに対してどういう教育の営みを展開していくのか、そして社会に対してできることはなにか、真剣に考えなければならないといつも思うのです。

ぶとうの会7周年記念講演、高垣忠一郎先生(立命館大学)のメモ

ひきこもりの若者なんかは、この社会についていけない自分がだめな人間だと思っている。「この社会」で競争についていけない自分、敗者になってしまった自分、みんなは辛さを感じずにいきてるのに感じてる自分、またはみんなも感じて耐えているのに耐えられない自分が悪いと。

ある部分を否定をされたとき、それで自分がまるごと否定されると感じる人が多い。そういうシャワーを小さい頃から浴びてきている。「なんでこんなこともできない」だとか「こんなこともできなくてどうする」「世の中で生きていけないぞ」といった具合に。

人が道具と一緒になっている。ある働きがてきないだけで物は使い物にならなくなる。携帯電話も液晶が割れたらつかいものにならない。そんな感じで、ある部分が使えない人間は、人間性の全てが否定される。それは、人間教育が人材教育に変わってしまっていることに原因の一つがある。

教育が、企業にとって都合の良い人材の育成の場になっている。そして、それが子供達の行きづらさ、しんどさにつながっている。まして、競争社会では他人との比較がなされるというそんな中では私は私であって大丈夫という自己肯定感が持てない。

そういう人は、これをやったら周りの人はどう思うだろうかということばかり気になって、人の顔ばかり伺う子に育つ。

自己肯定感というのは評価の自己肯定感ではなく、許しの自己肯定感である。赤ちゃんがうんちをしたとき親は「よしよし」という。この「よしよし」は、「かまわないよ、うんちして迷惑だけど、よしよし」という意味が含まれている。何もできない赤ん坊でも「よしよし」だよ。ここで生きてていいんだという「よしよし」。赤ん坊は経済活動の観点からすると迷惑ばかりかける存在であり、非効率だが、大方の親にとってその子はがかけがえのない存在で、愛すべき存在である。人に対するこういう感覚が足りない。

子どもも大人も評価ばかりされている。「君の変わりは山ほどいる」と言われている。

痛んでいる子どもにどれだけ寄り添ってあげられるか。安心が植え付けられるかどうか。

そうして育ってきたなかで、かけがえのない自分なんていうのは一朝一夕ではできない。でも、一人一人がかけがえのないストーリーを持っていることは間違いない。

社会のシステムを変えて行くことが根本的な課題で小手先では難しい。共感し合える人間関係を作って行く中で自己肯定感を作っていく。

自立とは何か、フロイトは「大人になるということは働くことができるようになることと愛することができるようになることだ」といっている。今の日本は物質的に豊かになっていても、未成熟な社会でしかない。

人を愛することができるのは、まず自分を愛することができる人間でないとできない。

かけがえのない存在である。とりかえたくないと思う。この子と生きてられているのがとっても嬉しいという気持ち。それが子どもにつたわっておらず、自分は愛されていると感じさせてもらえていない。

子どもたちには、働くことばかりではなくて愛することを教えてあげないといけない。

「自分のしんどいことや辛いことを話すことは相手にとって迷惑だ」と今の子供達は考えている。「自分はそんなこと話すに値しない人間だ」と思っている。語る、それを聞いてあげる、受け止めてあげる、そんな話聞いてもらうに値するのか?と思っている中で聞いてあげる。こんな風に一生懸命聞いてもらえる人間なんだと自己肯定感を持てるようになる。

卒業にあたって、みんなへ。

みんなの中には、北星余市を卒業するにあたって「よし、俺は高校生活において世の中で生きていく術をすべて学んだから、自信満々、意気揚々と羽ばたいていくぞ」という人はいないだろうと思う。むしろ、不安を大なり小なり抱えていることと思う。

そんなみんなに案ずることはないと伝えたい。大丈夫、きっと素敵な生き方ができる。

例えば、北星余市の卒業生に関して「進学したが、途中でやめてしまった」という話を聴く。これは「短期的に見たとき、この道は違っていた」ということを示すだけのことであって、「失敗」とまでは言えない。人生は目的地を定めて歩く迷路のようなもので、ここに向かってこの道をだどったら行き止まりだったということを知るのも一つの経験である。その経験は目的地にたどり着くには遠回りだったかもしれないけれど、その行き止まりまでたどり着く中で得た経験というのが、その人の中に存在するようになる。場合によっては、それは目的地があいまい過ぎたからそうなった可能性もあって、そうやって行き止まりまでたどり着くことで、直前の位置に戻って、再び自分の目的地はこれで良いのだろうか…と再考することもできる。そして、その選択がのちに大きな意味を持つことがある。人生における出来事は、それを評価する人の価値観に基づいて、短期的な「成功」か「失敗」かを評価することができる。しかし、それは真の意味での「成功」か「失敗」かはわからない。長期的に見た時にはそれがいったい何につながるのかということは見えなくなる。

誤解を恐れずにいうと、きっと、みんなの多くは一般的な価値観とは違うものを持っていると思う。なぜなら、北星余市に来ているみんなは人より鋭い感覚を持っているからである。繊細な感覚といってもいい。加えて、それらの感覚にしたがって、実行に移す勇気も持っている。例えば、みんなから北星余市に来る前の話しを聞いていると「そうか、そういう出来事に対してそういう感じ方をするのか。自分の中学校時代にはなかったな」と思うこと、「なるほど、それは腹が立つ。自分も中学校時代に経験したことだ。しかし、自分にはそれに抗う勇気はなかった」と思うことがやまほどある。そういう感覚を持っている人が多い。そして、そのほとんどはしごくまっとうなのである。そういう感覚を持っているみんなは、色々な場面で人と違う見方のできる素質を持った人間なのである。みんなはそういう違う感覚と勇気と実行力を内に秘めている。これまでは、子どもという社会的に弱い立場であるとともに、その感覚を発揮する方法に制限があり、また間違いがあっただけのことである。北星余市では「ダメなことはダメ」と伝える一方、些細なことでも「イイことはイイ」とみんなに伝えてきた。我々は別にみんなに「大人という権威に従順な人間になってほしい」と思ってやってきたわけではない。「イイ子になってほしい」と思ってきたわけではない。その感覚と勇気と実行力を、適正な形で発揮するための術を身に着けてほしいと思ってきたのである。だから、あーでもないこーでもないと3年間言い続けてきたのである。北星余市で卒業をつかむことができたみんなは、そこのところ微妙な価値観の具合を、多種多様な経験を積んできたたくさんの人たちから学んでいる。しかも、それは社会生活を送るのに逸脱することのない価値観である。そんなみんなはいまさら世の中の一般的な価値観に無理に合わせて生きていく必要はない。

例えば、歴史に名を残している著名人のほとんどはそういったみんなに通ずるものを持っている。スティーブ・ジョブスだって、レディ・ガガだって、そういった人とは違う感覚を持っている人たちが、いつだって世界を大きく変えてきたのである。エリートは、今ある制度の中でそれをいかにまわしていくかということに関しては長けているが、そういった可能性においては、君らにかなわない。自信をもっていいと思う。別に、そんな歴史に名をはせる人間になってほしいといっているのではない。そういう人とは違う感覚が、みんなの武器になりうるのだと伝えたいのである。それほど、不安になることはない。勉強は後からでも追いつける。北星余市に存在していたように、みんなを理解してくれる人が必ずいる。世の中で生きていく力の土台は、ほとんどのみんながこの3年間で身に着けた。それをもとに、これからもたくさんの人の価値観に触れながらも、自分の感覚を信じ、成長目指していってほしい。焦らず、歩みを進めていってほしい。

自分の感覚が「これは大切にしたいことだ」と訴えかけてくるものを探し続けてほしいと思う。北星余市ではそれが見つけられなかった人も多いと思う。人にはタイミングというものがある。チャンスといってもいい。そのときが来るまで、探し続けてほしい。卒業してから、なんどもつまづくだろうし、うまくいかずにあきらめてしまいそうになるときもある。なきゃおかしい。でも、そんなとき、中学校に通えなかった自分が、何かをやり通したことのなかった自分が、苦しいことも多く、なんどやめようと思ったかしれない北星余市の3年間をやりとげ、そしてこの日を迎え抱いているその胸の中にあるものを思い出してほしい。探し続ければ、いつか見つかる。見つかる前にあきらめないでほしい。

北星余市でのつらく苦しい日々は「これをすることによって何が得られるのか」「この先に自分が望んでいたものが手に入れられるのか」といった焦りがそうさせている。人生は振り返ってみたときに初めてその意味がわかる。1年生のとき「こんなことをしていて何の意味があるかわからない」とたくさんのみんなが言っていた。みんなのそんな発言に対して、その通りだと思っていた。わかりっこないのである。しかし、今日この日を迎えたみんなの中で「やはり、退学しておけばよかった」と思う人はいないだろう。それはみんなの中にあった「卒業したい」という「大切にしたいこと」と過去の3年間に照らし合わせて、あのときの行動がこの日を迎えることにつながっていたということが見えたからである。だから、今日この日を迎えた意味だって、振り返って過去に照らせば「あの時の頑張りはこのためだったのか」とおぼろげに見えてくるが、将来に照らした時には「卒業したからって何の意味があるんだろう」と卒業の意味は見えないものとなる。「卒業したからって何の意味があるんだろう」という問いの答えは、これから年を取るごとに見えてくる。物事の意味は、未来に立ち至り振り返るまで本当の意味ではわからない。その意味がわかるまで、5年かかる人がいれば、10年かかる人もいるだろう。そして、その意味は未来のある時点までの自分の行動によって方向づけられていくのである。みんな自身がつくり上げているのである。それが生きていくということである。それが人生の楽しい所である。不安がる必要はない。そうして、自分でつくり上げていく人生を楽しんで生きていこう。

45期は1年生から3年生まで、3年間授業をもった学年である。やさしい子が多く、明るくも穏やかな学年だった。ここにいなくなるのはちょっとさみしいけど、元気で頑張ってほしい。いつも授業に行くのは楽しみだった。「えー、授業ヤルのぉ?」と必ずといっていいほど言われたけど。PTAのみなさんはとてもパワフルで北星余市を親身になって応援してくださった。感謝しております。これからも北星余市を応援していただければ幸いです。45期卒業生並びに父母のみなさま、ご卒業おめでとうございます。

Profile

北星学園余市高等学校で教員をしています。
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