Archive for 2月 2011

【イベント情報】第11回「非行」を考える全国交流集会



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「雨上がりの会」さんから、上記イベントのチラシが届きました。行きたいなぁ、、、いけるかなぁ。。
お近くの方、ぜひ。お知り合いで悩まれている親御さんにもぜひ勧めてあげてください。


日時:2011年3月26日(土)27日(日)
会場:千葉県柏市さわやかちば県民プラザ
主催:「非行」を考える全国交流集会実行委員会
後援:千葉県 千葉県教育委員会 柏市 柏市教育委員会
   日本子どもを守る会 全国生活指導研究協議会
   東京総合教育センター NPO法人非行克服支援センター
連絡先:事務局 169-0073 東京都新宿区百人町1-17-14 コーポババ21 
        「非行」と向き合う全国ネット内
        電話:03-5348-7265
        FAX:03-5337-7912




詳細は下記のPDFでご覧下さい。
上記イベントのチラシ:http://ojd.npgo.jp/11thzenkokukasiwa.pdf


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【イベント情報】「不登校の子どもを持つ親たちの交流のつどい」第60回例会



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日時:2011年2月27日(日)13:30~17:00
会場:いちのみや桃の里ふれあい文化館 1階和室(玄関入口より階段下りる)
   笛吹市一宮町末木921-1
   0553-47-6066
参加費:500円
不登校ミニ講座「新たな自分づくりの為のとらえ直しとは」
連絡先:鈴木正洋/鈴木はつみ 
    TEL:0553-44-5078  FAX:0553-44-5079
    Mail:kyodo-sanso@hb.tp1.jp

山梨県・ぶどうの会さんからニュースレターが届きました。


「山梨不登校の子どもを持つ親たちのぶどうの会」さんからニュースレターが届きました。


「山梨県・ぶどうの会さんからニュースレターが届きました。」で書いたとおり、先日もぶどうの会さんからニュースレターが届いて、ふむふむと勉強させていただいておりました。ぶどうの会の代表・鈴木正洋さんと奥様の鈴木はつみさんは、自身の息子さんが不登校になったことをきっかけに不登校を考え、活動されている方。



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鈴木さんは、こちらも2010年12月に訪問させていただいた、千葉県の「不登校問題を考える東葛の会『ひだまり』」主催の講演会(11月27日・松戸勤労会館)で講演をされ、その内容が掲載された『ひだまり』ニュースと共に、送付してくださったわけです。

感謝。

「不登校、その意味と対応 ~子どもを信じて任せて待つとは~」

と題された講演会の内容は、私が日々、入試委員長としてまた教育相談会でお父さん・お母さんの相談を受ける中で、まさに感じていたことがたくさん書かれてありました。「そうそう、そうなんですよね」と思いながら、首を縦に振っていました。

私が相談を受けている中で思うのは、お父さんもお母さんも「どうしたらいいかわからずに悩んでいる」から「現状を打破するための、答えを求めている」なぁ、ということ。

この「答えを求める」というのは、意外と曲者で。何か特効薬のような、はたまたマニュアル的な「こうすれば、よくなります」みたいなものを求めておられる方がたくさんいらっしゃるのですが、そうじゃないんですよ、、、といつも思うわけです。その気持ちは十分にわかるのですが、そうしても子どもの状況は変わらない。

言うは易し行うは難しですが「どうすれば子どもが元に戻るか」という考え方は、より一層、子どももお父さん・お母さん自身も苦しめることになる。これは私が相談を受けてきた経験上、ほぼ間違いないことです。「親として受け止めがたい現状を受け止めたうえで、この子をどうやって育てていこうかしら」と考えること。

このニュースレターに書かれていることは、どれも当たり前のことで、人と人とが関わり合うことの根底に据えられるべき所作が記されている。そして、それに基づいて自分を観て、相手を観ると自ずと導き出される事柄が書かれてありました。

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子ども子育て新システムについて。


先日「「子ども子育て新システム」で「保育」が破壊される?」で紹介した、名古屋の川口弁護士が、ブログ上で「子ども子育て新システムについて。」と題して記事を掲載されています。


幼稚園と保育園を分けておく必要ってあるんかね?子どもを育てる場所は一つでいいんじゃない?そうそう、ひとつにしたほうが効率的でしょ?

なんて、単純な話ではないので、よくよく読んでみたほうがいい。子育てに関わる大切なことですから。

昭和新山国際雪合戦大会の審判講習会に参加してきました。


学校のブログにもアップしましたが、今日は、明日出場する昭和新山国際雪合戦大会の後志地区大会に向けた審判講習会に参加してきました。

雪合戦大会。慣れれば問題はないのでしょうが、さすが「競技」だけあって結構ルールがあって、頭に入りきりません。もともとスポーツは個人競技しかやったことないですし、審判というもの自体、初体験なので勇気を持って「アウトっ!」って言えるか不安ですが、まぁ、いってきます。



不完全であること 「わたしたちの教育基本法 /大田 堯 (著)」より


しかしながら、あらゆる地球上の生きとし生けるものは多様であり、種の持続(個体はそういう意図はもっていないとしても、結果において)を遂げるためのたくまざる智恵が生物には含まれていると考えるほかはないと私は思うのです。違うということは、たとえば人間を考えるとすぐわかります。その人間はメリットとデメリットを持っています。このメリットとデメリットの配分の仕方が微妙に違っています。つまり違うというのは、どの個体も不完全であるということです。少なくとも、生命個体は自己完結体ではない、という事実は否定できません。

1945年までは、このわが日本列島に、完全な方が一人おられたのです。いうまでもなく、それは天皇でありました。天皇は完全な、人でありながら神であったのであります。

ところが、1946年1月1日に、天皇が「俺は神ではないぞ」という趣旨のことを全国民にむかって表明されたときから、私ども日本人の中には完全な人物は一人もいなくなりました。みんな不完全だらけの人間がこの日本列島に住むようになったのであります。不完全だからこそ、不完全なままに、それぞれのもち味で考えを述べ合い、行動してかかわり合い、それらをまとめあげて社会を創造していこう、というのが民主主義の基盤ではありませんか。

生命というものは、なにか神様のような絶対者がいて、それに画一同化するするものではありません。声明は違うものであり、一人ひとりがユニークな違い方をしている。生まれた時から障害をおもちの方があっても、それは違いの一種に過ぎない。寝たきりの老人がいらしても、それは違った生き方の一つがそこに崇高にも存在するということなのです。全人類の命をみんなが不完全なままで、どこかで支え合っている。これが、われわれの民主社会の基盤をなしている生命個体のあり方である。このことを確認するのは、大切なことなのであります。

人が一人ひとり違っているということは、ごく普通なことにみえますが、この平凡な子とが実は民主主義の根幹にあることを、私どもは何度も確かめていきたいと思います。教育基本法五十年というこのとき、ますますそれを確かめてみなければと私は思うのです。違うことがわかりきっているのに、「違わないもの」として、人を束にして画一に扱わされている状況は、学校教育に限ったわけではありません。兄弟を比較する親の姿勢にもそれがあります。

一人ひとりが違うのだという民主社会の原理が教育の中に浸透するのであれば、あくまで、その子その子のユニークさとつきあっていくのが教育なのだということになるわけです。教育の画一的なあり方に対する最も厳しい批判がそこからわきでてくるのではないかと私には思われるのです。

(中略)

「人格の完成をめざす」という教育の目的は、「子どもを完全な人間にする」ということではありません。そんな完全な人間になるはずはないのです。そうではなくて、一人ひとりがユニークに違っていて、違うままにそのもち味を創りだしていける、みんなで支え合っていくことのできる人間になろうといっているのであります。一人ひとりの子どもを完全な人間にするなどという、そんな教育目的として教育基本法を読みますと、生命の原理に反することになるのだと私は思います。

58p~61p
(わたしたちの教育基本法 / 大田 堯 (著) )

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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