ぶとうの会7周年記念講演、高垣忠一郎先生(立命館大学)のメモ

ひきこもりの若者なんかは、この社会についていけない自分がだめな人間だと思っている。「この社会」で競争についていけない自分、敗者になってしまった自分、みんなは辛さを感じずにいきてるのに感じてる自分、またはみんなも感じて耐えているのに耐えられない自分が悪いと。

ある部分を否定をされたとき、それで自分がまるごと否定されると感じる人が多い。そういうシャワーを小さい頃から浴びてきている。「なんでこんなこともできない」だとか「こんなこともできなくてどうする」「世の中で生きていけないぞ」といった具合に。

人が道具と一緒になっている。ある働きがてきないだけで物は使い物にならなくなる。携帯電話も液晶が割れたらつかいものにならない。そんな感じで、ある部分が使えない人間は、人間性の全てが否定される。それは、人間教育が人材教育に変わってしまっていることに原因の一つがある。

教育が、企業にとって都合の良い人材の育成の場になっている。そして、それが子供達の行きづらさ、しんどさにつながっている。まして、競争社会では他人との比較がなされるというそんな中では私は私であって大丈夫という自己肯定感が持てない。

そういう人は、これをやったら周りの人はどう思うだろうかということばかり気になって、人の顔ばかり伺う子に育つ。

自己肯定感というのは評価の自己肯定感ではなく、許しの自己肯定感である。赤ちゃんがうんちをしたとき親は「よしよし」という。この「よしよし」は、「かまわないよ、うんちして迷惑だけど、よしよし」という意味が含まれている。何もできない赤ん坊でも「よしよし」だよ。ここで生きてていいんだという「よしよし」。赤ん坊は経済活動の観点からすると迷惑ばかりかける存在であり、非効率だが、大方の親にとってその子はがかけがえのない存在で、愛すべき存在である。人に対するこういう感覚が足りない。

子どもも大人も評価ばかりされている。「君の変わりは山ほどいる」と言われている。

痛んでいる子どもにどれだけ寄り添ってあげられるか。安心が植え付けられるかどうか。

そうして育ってきたなかで、かけがえのない自分なんていうのは一朝一夕ではできない。でも、一人一人がかけがえのないストーリーを持っていることは間違いない。

社会のシステムを変えて行くことが根本的な課題で小手先では難しい。共感し合える人間関係を作って行く中で自己肯定感を作っていく。

自立とは何か、フロイトは「大人になるということは働くことができるようになることと愛することができるようになることだ」といっている。今の日本は物質的に豊かになっていても、未成熟な社会でしかない。

人を愛することができるのは、まず自分を愛することができる人間でないとできない。

かけがえのない存在である。とりかえたくないと思う。この子と生きてられているのがとっても嬉しいという気持ち。それが子どもにつたわっておらず、自分は愛されていると感じさせてもらえていない。

子どもたちには、働くことばかりではなくて愛することを教えてあげないといけない。

「自分のしんどいことや辛いことを話すことは相手にとって迷惑だ」と今の子供達は考えている。「自分はそんなこと話すに値しない人間だ」と思っている。語る、それを聞いてあげる、受け止めてあげる、そんな話聞いてもらうに値するのか?と思っている中で聞いてあげる。こんな風に一生懸命聞いてもらえる人間なんだと自己肯定感を持てるようになる。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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