期待。

期待されるって、嬉しいと思う瞬間があります。その期待に応えられそうな自分がいたとき、その嬉しいに気持ちが素直に反応するものです。けれど、応えられなさそうな期待をかけられたとき、少しだけ苦しく感じる自分がいる。応えたいけれど、応えられないもどかしさ。無理をしたって先は見えている。そもそも無理をするつもりもないし、その期待の存在しない関係でありたいと願うときがある。そんなとき、どうしたものかなぁ、と。

かけられる期待というのは、自分と相手の関係において、そもそも、相手が見ている世界。期待されて、嬉しいと感じる瞬間があるのは、相手が相手の世界において、自分をそう見てくれているということに反応するのであって、しかし、次の瞬間、自分がよく知っている自分を見つめ、「相手の世界の自分」と「自分」に乖離がありすぎるとき、相手が待っていることに応えられないことへの自責の念が生まれるものなのだと思います。

期待をかけてもらえるだけありがたいこと、喜びなさいよ。

そんな言葉をよく聞くけれど、これは期待をかけられた側が自発的に思うことであって、かけた側が言ってはならない言葉なのだと思います。ありがたくないなんて一言も言っていない。喜んでないとは言っていない。かけられた相手が、その先のことで、困ってしまうのかもしれないという想像を、期待をかける側はすべきだろうと思うのです。

期待というのは、自分と他者との関係があるから生まれるわけですが、性質として、その人の主観的なものの見方であるという要素を濃くもっていて。一方、人と人との関係というのは一方の思いだけでつくれるものではないわけで。だから、期待をする側は、それが至って自分の世界を見ているのであって、その強烈な思い故に、相手をおろそかにしていやしないか、相手を見落としていやしないか、苦しめていやしないかを振り返る必要があるのだと思います。

あなたにとって大切な相手だから、期待をかけているのでしょう。大切な相手のであれば、まず、相手をしっかりと見つめて、掬うことが先なのではないのでしょうか。それとも、あなたは、あなたの世界の中の相手という像を追いかけているだけなのでしょうか。あなたは、あなたの世界に、あなたの思い描く通りに、相手を取り込みたいだけなのでしょうか。「そうじゃない」というのであれば、まず相手を見てあげて欲しいと強く思います。

そして、僕は、相手のかけてくる期待に丁寧に向き合っていきたいと思います。その期待に応えられないことも、丁寧に伝えていきたいと思います。その相手との関係を大切にしようと思える限り、何度でも。きっと、いつかどこかで伝わってくれるかもしれないと思いながら。思える限り、何度でも。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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