教育活動は、わからないことだらけだけど、わかりやすいたったひとつのことがある。

教育という営みは、本当によくわかりません。今、ここでやっていることが、いったい何になるの?って感じです。教師やって15年経ちますが、未だにその感覚は抜けません。

「教育」を大辞林で引っ張ってみると、
「他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。広義には、人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。その活動が行われる場により、家庭教育・学校教育・社会教育に大別される。」
 って書いています。

この「望ましい方向」とはいったいなんなの?これを見定めるのは本当に大変なこと。

そして、例え「これが望ましい方向だ」と定めたとしても、その方向へ導く際の方法に、正解というものがない。

「この言葉をかけてあげたら、この子は、必ずこの方向に進んでいく」そんなマニュアルのような、公式のようなものはない。

「意図的な働きかけを行うことによって」と書いてあるけど、例えば、応援することを意図として「がんばれよ」と言葉をかけても、その時の状況や、それまでに育ってきた環境や経験、その言葉を発する人間との関係はもちろん、その言葉を発する人間のそのときの口調や場合によっては天気によっても、言われた側がどう受け取り、それがその後、どう影響していくかなんて言うのは、大きく変わってくる。

もっといえば、「がんばれよ」と言われた人間が、例えばそのとき気分を害したとしても、その次の瞬間に、何かがひらめいたりして、前向きに考えることだってある。

自分の身に置き換えて考えたとき、だれでも体験した事があることだと思います。

「なんだかわからないけど、小学校から学校に行っていなかった子供がこんなに輝くようになった」

「あれだけ世の中に背を向けていた子供がこんなに世の中に向き合うようになった」

私の学校にはそんな事例は腐るほどあるけど「何をしたら、そうなったの?」と聞かれると、ひとつひとつは説明できない。

一人の人間が、高校時代の24時間365日×3年をどう過ごしたか、もっといえば、うちの学校にたどり着くまでの十数年、二十年近くの時間をどう過ごしたかが複雑に絡み合っていることなので当然ですよね。

いつどこで誰とどんな出来事があって、それまでの過程はこうで、どんな些細な言葉だって、場面だって、人を変える可能性がある。その一つ一つ積み重ねられたものの上に、その人の今があるわけで、それを具体的に説明しきることは、不可能と言っても過言じゃない。

そう考えたら、教育という営みは、すべてを言葉で説明しきることのできない、いや、むしろそのほとんどを言葉で説明することが困難なものなのかもしれないなぁ、と思います。

ただね、ひとつ間違いなくいえるのは「人の思いというのは必ずいつかどこかで花開く」ということ。

とふと思った今日でした。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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