不完全であること 「わたしたちの教育基本法 /大田 堯 (著)」より


しかしながら、あらゆる地球上の生きとし生けるものは多様であり、種の持続(個体はそういう意図はもっていないとしても、結果において)を遂げるためのたくまざる智恵が生物には含まれていると考えるほかはないと私は思うのです。違うということは、たとえば人間を考えるとすぐわかります。その人間はメリットとデメリットを持っています。このメリットとデメリットの配分の仕方が微妙に違っています。つまり違うというのは、どの個体も不完全であるということです。少なくとも、生命個体は自己完結体ではない、という事実は否定できません。

1945年までは、このわが日本列島に、完全な方が一人おられたのです。いうまでもなく、それは天皇でありました。天皇は完全な、人でありながら神であったのであります。

ところが、1946年1月1日に、天皇が「俺は神ではないぞ」という趣旨のことを全国民にむかって表明されたときから、私ども日本人の中には完全な人物は一人もいなくなりました。みんな不完全だらけの人間がこの日本列島に住むようになったのであります。不完全だからこそ、不完全なままに、それぞれのもち味で考えを述べ合い、行動してかかわり合い、それらをまとめあげて社会を創造していこう、というのが民主主義の基盤ではありませんか。

生命というものは、なにか神様のような絶対者がいて、それに画一同化するするものではありません。声明は違うものであり、一人ひとりがユニークな違い方をしている。生まれた時から障害をおもちの方があっても、それは違いの一種に過ぎない。寝たきりの老人がいらしても、それは違った生き方の一つがそこに崇高にも存在するということなのです。全人類の命をみんなが不完全なままで、どこかで支え合っている。これが、われわれの民主社会の基盤をなしている生命個体のあり方である。このことを確認するのは、大切なことなのであります。

人が一人ひとり違っているということは、ごく普通なことにみえますが、この平凡な子とが実は民主主義の根幹にあることを、私どもは何度も確かめていきたいと思います。教育基本法五十年というこのとき、ますますそれを確かめてみなければと私は思うのです。違うことがわかりきっているのに、「違わないもの」として、人を束にして画一に扱わされている状況は、学校教育に限ったわけではありません。兄弟を比較する親の姿勢にもそれがあります。

一人ひとりが違うのだという民主社会の原理が教育の中に浸透するのであれば、あくまで、その子その子のユニークさとつきあっていくのが教育なのだということになるわけです。教育の画一的なあり方に対する最も厳しい批判がそこからわきでてくるのではないかと私には思われるのです。

(中略)

「人格の完成をめざす」という教育の目的は、「子どもを完全な人間にする」ということではありません。そんな完全な人間になるはずはないのです。そうではなくて、一人ひとりがユニークに違っていて、違うままにそのもち味を創りだしていける、みんなで支え合っていくことのできる人間になろうといっているのであります。一人ひとりの子どもを完全な人間にするなどという、そんな教育目的として教育基本法を読みますと、生命の原理に反することになるのだと私は思います。

58p~61p
(わたしたちの教育基本法 / 大田 堯 (著) )

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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