競争の時代にいかなる教育を展開していくべきなのか。

競争は人間のパフォーマンスをあげるという人がいます。ふむ。

2012年4月1日の北海道新聞にこんな記事がありました。山梨県立大学、山本武信教授の文章。
「僕が企画した旅行プランが初めて実を結びそうだったんです。すると上司が僕の目の前で顧客に電話し、あの企画は欠陥があるので、自分のプランに乗り換えてくださいって言うんですよ。信じられなくて」
昨年、旅行会社に就職した教え子が悔しそうに話す。不況で業界のパイが縮小する中、1人当たり年間数千万円という売り上げのノルマが重くのしかかり、社員同士の足の引っ張り合いが激しいのだという。


これを読んだとき、内田樹さんのいつもの論調がぱっと頭に思い浮かびました。
子供たちを閉じ込めて、閉鎖集団の内部で相対的な優劣をつけて、相対的優者に報酬を、劣者に罰を与えるということをしたら何が起こるか。集団全体の学力が下がるだけなんです。必ず下がる。なぜかというと、閉じられた集団の中の相対的な優劣を競うのであれば、自分の学力を上げることと、まわりの学力を下げることは「同じこと」だからです。そして、自分の学力を上げるのと、まわりの子供たちの学力を下げるのでは、後の方が圧倒的に費用対効果が高い。だから、子供たちを競争的環境に追い込めば、子供たちは互いに争って、となりの子供たちの学習意欲を失わせようとする。必ずそうなる。
内田樹の研究室/平松さんの支援集会で話したこと
これは学力を競争で高めようとしたときに、いったいどういうことが起こるか・・・といったことを書いているのですが、まさしくこの構造が上の新聞記事の会社にも当てはまっていると思うわけです。


そして、それと同時に、この記事も思い浮かびました。
内田樹の研究室/雇用と競争について

いま、放送大学教授、宮本みち子先生の「若者が無縁化する: 仕事・福祉・コミュニティでつなぐ」 (ちくま新書) 2012/2/6を読んでいます。




この本の34ページから36ページにかけて、とても印象に残る、日々感じている社会構造、そして現状が記されていました。
労働から排除される若者
国際規模で競争を迫られた企業は、高い生産性を発揮できる労働者だけを選別し、それ以外の単純労務は機械化するか、外国人労働者を使うか、海外へ外注する傾向が強まっている。そのため仕事に就こうとする若者には、「早く、正確に仕事ができること」「複数の仕事を同時にこなすこと」「先々を見通しながら今必要なことを処理できること」「職場内外の複雑な人間関係に対処できること(コミュニケーション能力)」「高度な情報処理能力」が求められる。
今まで以上に、仕事は、キャリアを通じて能力や所得の向上が可能で、確実な将来設計が担保されるような職種とそうでない職種に分断され、それらは固定化する傾向にある。また、このような能力がなければ職に就くことができないため、能力のない一定の人々は労働市場から排除されてしまう。
そこから排除されないために、高い教育・訓練を受けようとしても、大きな経済負担を強いられるため、経済力や文化資本がない家庭に育てば、それらを受けることはできない。その上、教育・訓練を受けようという動機や意欲は、幼少の頃からの生育過程で内面化されるものであり、お金で解決できない根の深さがある。
大学を卒業すれば、先ほどの能力が身につくというわけでもない。就職活動では、個々人の性格や脂質や能力が厳しくふるいにかけられる。就職試験に100回失敗したという話を聞くと、不況であるというだけで説明できない深刻な事態を感じざるをえない。それでも、世間は、自己責任の一言で片づけてしまいがちで、深刻な構造上の問題が横たわっていることに気付かないまま放置してしまう。
障害学を研究する東京大学の福島智と星加良司は、障害者問題をあらたな視点でとらえ、「障害者だけでなく『ニート』や『フリーター』と呼ばれる人々の少なくとも一部は、新しい経済構造の中で生み出される『敗者』であることを余儀なくされることにより、市場における十分な価値評価を断念せざるを得ないと感じている人々」と定義している。
まさに、労働市場の二極化の圧力のなかで、人間の価値は貨幣による数値化された評価に晒されるのである。福島・星加がいうように、この社会は、労働市場における単線的で「数直線的」な価値序列システムに強く規定されていて、それに代わる価値を追求できる機会や資源を十分には提供できない(福島・星加2006)。そのため、労働市場から排除される若者は生きる場所さえ奪われてしまう。
例えば、冒頭に紹介した記事の「上司」だって「教えてあげればいいのに」と思うんです。「欠陥」があるなら、「おまえさぁ、こここうしないとまずいだろ?お客さんが困るでしょうよ。しかも、ここだって、こうすりゃ、もっといい企画になんのによ」とかなんとかいいながら、その「欠陥」を指示して改善してあげればいいんです。

内田樹さんは、上記、雇用と競争についてで、
「自由貿易の勝利は、最終的にどの国の国民経済にも「義理がない」多国籍産業の手に帰すだろうということである。」
「貧乏人たちの金を吸い上げて、一部の金持ちに集約させる。衆の輿望を担ったこの「金持ち」が他の金持ちたちとの国際競争に勝ち、回り回ってその金持ちが貧乏人たちに「収益の余り」を施すようになる、というシナリオである。鄧小平の「先富論」そのままである。」
と語っている一方で、
「国民経済というのは、端的に全国民が「食えるか」どうかという問題」
としながら、自由貿易と国民経済の仕組み、抱える矛盾をクリアに語ってます。

この会社に起きている仕組みは次元の違いはあるけれど、質的にはまったく同じものです。同じ会社の仲間であり、後輩である生産性の低い人間は、自由競争の名の下で敗者となる。しかし「先富論」が実現されることはない。それがたくさんの会社で起きている。そして、それは社会につながっている。それが宮本先生が書かれていることで表現されている。

国民経済的観点に立ち、「我々社員全員が「食えるか」どうかとう問題」のためには、生産性の低い後輩も育てないといけない。けど、「先富論」にたてばそんなことをする必要もない。

勝手に想像するに、きっと、その先輩だって、後輩を育ててあげたいという気持ちはあるでしょう。そうすることが後々、自分にも帰ってくる。豊かな会社になる。そんなこと、心と頭のある人ならわかっているでしょう。わかっているけれど自分もそうしないと競争に勝てない、生きていけないという状況にあるのだろうと勝手に想像します。 しかし、この上司のとっている行動は、結果的に宮本先生のいう「能力のない一定の人々は労働市場から排除されてしまう」ことにつながる行為を、入社1年目の後輩に対してしているわけです。こうしたことが、日々、色々なところで行われている。

つまり、競争とはそういうことなんだと思います。同じ目的に向かって勝敗、優劣をきそい合うことが、競争です。勝つ者がいれば、負ける者がいる。負けたものは排除される。自由競争なんだから敗者は努力が足りないし、敗者になったって、努力をして、また戦いに挑むチャンスがあるという言い方もあります。しかし、それは現実的ではない。すべてが平等であるという前提なら、一万歩譲ってよしとしましょう。しかし、そもそもすべてが平等であるということなどありえない。例えば、この新聞の例に上がっている上司と入社1年目の人間を比べたって、平等なんかじゃない。

高校という3年間をすぎると、私たちは子どもたちをこういう社会に放たねばならなくなる。私たちが子どもたちに対してどういう教育の営みを展開していくのか、そして社会に対してできることはなにか、真剣に考えなければならないといつも思うのです。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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