自民党と教育政策ー教育委員任命制から臨教審までー / 山崎政人




1986年に出版された本書。戦後から当時までの自民党の教育政策を中心に学校教育界の歴史を追っているのですが、読んでいてとても数十年前の出来事とは思えない感覚をおぼえました。

日教組対策、経済界の要望に応える教育政策、教育によって愛国心を植え付けようと試みていること、能力主義にもとづいた教育政策展開、そのためにいかに国が教育を管理しようと試みて来たかが、ずらーっと書かれている。日教組対策は1950年代には始まっているし、そのほかも1960年代から自民党は同じ方向で進んでいますね。

底流に流れているのは
自民党は結党大会で等の政策の基本方針を示す六項目の「政綱」を決定した。その第一項目は「国民道議の確立と教育の改革」で
「正しい民主主義と祖国愛を高揚する国民道議を確立するため、現行教育制度を改革するとともに教育の政治的中立を徹底し、また育英制度を拡充し、青年教育を強化する。体育を奨励し、芸術を育成し、娯楽の健全化をはかって、国民上層の純化向上につとめる」とうたった。
まず第一に教育改革をかかげたことについて、自民党の正史『自由民主党二十年の歩み』は「占領政策是正のための一つの重要課題が教育を刷新改革し、とくに政治的に著しく偏向しつつある教育を正常な姿に戻し、教育水準を高めることにあるというのが、自由民主党立党答辞の強い信念であった」
「自由民主党が立党後まず第一に取り組んだ課題は、占領下における教育政策の誤りに乗じて勢力を伸ばした左翼日教組指導層の政治的偏向によって政治的中立性が失われつつある教育を正常な形に戻すことであった」と書いている。
という自民党の政策と日教組との対峙。

1945年の戦後教育改革がなされてから、70年弱。徐々に徐々に自民党が『自由民主党二十年の歩み』に書かれている「強い信念」を実現していく過程が描かれています。そして、それらは今も続けて展開されていることに驚きました。その70年を憶うと、このままでは、今の教育行政の問題、教育現場における課題や教育という側面からのぞいたときに垣間見える社会問題、それらに伴った今横たわっている閉塞感がこれからも変わらずに居座ることへの危機感を覚えました。

集団的自衛権の行使容認とそれにともなう憲法解釈の変更を閣議決定し、改憲論議が今後も展開されることが予想される今の日本で、自民党・安倍政権がかかげる国づくり、その国づくりの元となる教育政策が、戦後の教育政策のどういった延長線上にあるものかを今一度確認するのにふさわしい良書だと思います。

政党が口を挟むことができずに、GHQ主導で進められた戦後教育改革を本書から最後に抜粋します。自民党は国を強くするために、教育政策を進めたいのでしょうね。
戦後の教育改革は、政党とはほとんど無関係に進められた。占領という状況下で連合軍総司令部(GHQ)の指令、覚書、さらにはGHQの要請で来日した米国教育使節団の報告などは絶対的な権威をもっていた。わが国の側で改革の具体策策定に当たったのは、学者、文化人を中心に構成された教育刷新委員会(のち審議会)であり、その答申にもとづいて、戦後教育の骨格を定めた「教育基本法」や「学校教育法」が制定(四七年三月)されたがその論議に政党が口をはさむ余地はなかった。
戦後の教育改革は、大よそ次のようにまとめることができよう。
一、平和と民主主義 − 教育基本法は前文で「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献」するという理想の実現は「根本において教育の力にまつべきもの」といい、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期」す、とうたった。それが戦前の軍国主義、超国家主義教育に対するきびしい反省から出たものであることはいうまでもない。平和と民主主義こそが戦後教育の原点だった。
二、国家の教育権から国民の教育権へ − 戦前、教育は国家が富国強兵を実現するために国民に課した義務だった。憲法は第二六条で「すべて国民は…教育を受ける権利を有する」と教育が国民にとって権利であることを明示した。この権利、義務関係の一八〇度の転換が、戦後改革の核心であり、教育は国のためでも、経済発展のためでもなく、どこまでも個人の「人格の完成」(教育基本法第一条)を目指すべきものとされた。
三、教育の機会均等 − 「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」(教育基本法第三条)とされ、教育上の差別はすべて否定された。義務(子どもの学習権を保障するために親に課せられた就学させる義務)教育は九年間に延長された。また高校も、義務制ではないものの、「入学希望者をできるだけ多く」収容することが望ましく、「選抜をしなければならない場合も、これはそれ自体として望ましいことでなく、やむをえない害悪であって、経済が復興して新制高等学校で学びたい者に適当な施設を用意することができるようになれば、直ちになくすべきもの」(文部省、『新制中学校・新制高等学校、望ましい運営の指針』−一九四九年)とされた。男女共学が原則とされ、女子に対してすべての高等教育の門が開かれた。
四、単線型学校体系 − 戦前は小学校を終えると中学校、高等女学校、職業学校、高等小学校と複数コースに分かれ、中学以外のコースは上級学校への進学が困難な閉鎖回路になっていた。高等教育も高校(旧制)−大学と高等専門学校に複線化され、このような複線型学校体系が人材振り分け、階層分化の機能を果たしてきた。戦後の学校体系は小学校—中学校—高校—大学と単線化され、すべての学校で上級学校進学が保障されることになった。
五、教育の自由—戦前、学校で教える内容は教育勅語と国定教科書によってきびしいワクがはめられていた。教師がこれから一歩でも外れることは許されなかった。一九四七年に文部省が発行した学習指導要領一般編(試案)は「いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる」という書き出しで始まり、「これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった傾きのあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげて行くようになって来たということ」といい、「直接に児童に接してその育成の任に当たる教師は、よくそれぞれの地域の社会の特性を見てとり、児童を知って、たえず教育の内容についても、方法についても工夫をこらして、これを適切なものにして、教育の目的を達するように努めなくてはなるまい」と書いている。
また、教科書は出版社が自由に出版し、それが基準に合っているかどうかだけをチエックする検定制がとられた。検定は都道府県教育委員会の権限とされた(一九五三年の法改正で文部省の権限となる)
六、教育の住民自治、地方分権 — 教育は「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行なわれ」(教育基本法第一〇条)なければならないとされた。そして「公正な民意により、地方の実情に即した教育行政」(教育委員会法第一条)を行うために教育委員会がつくられた。行政に直接、民意を反映させるため、委員は選挙で選ぶ(公選)こととされた。これらの改革が教育刷新委員会・同審議会の建議にもとづいて精力的に実施に移されていった。



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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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