憲法の「空語」を充たすために/内田樹



2014年5月3日の憲法記念日に神戸市で行われた兵庫県憲法会議主催の集会で行われた内田樹さんの講演にご自身が加筆されたもの。

相変わらずの内田さんの語りで分かりやすく、憲法とは何か、今その憲法がどういう流れで変えられようとしているのかが書かれています。

私たちの教育の世界のみならず、政治の世界も市場原理の発想で動いていることがよくわかるな。

改憲論議はこれからも続くわけで、そのとき、憲法改正案を作る人がどういう意図で、どういう国づくりをしたいか、そのためにどういう手段でそれを達成するのか、我々国民はそこにどう組み込まれていくのかを注視する必要がある。

憲法が確定された一九四六年の段階では、「日本国民」という実態はありませんでした。(中略)「だから改憲すべきだ」という声が出てくる理路は僕には理解できます。でも、問題はそのときの改憲の主体は誰なのか、ということです。「改憲したい」という人たちが、「主語が空語だから困る、中身のある言葉を主語にして憲法を改正したい」というのは、ロジカルには正しい。では、あなたがたは誰を憲法制定の主体にもってくるのか、何を主語にもってくるつもりなのか。
そして、内田さん「日本は法治国家ではなく、人治国家になってしまった」とおっしゃっています。
政局が流動化すれば、離合集散して予見不能の行動をとる。それが政治家です。ですから、政治家に長期的な首尾一貫性を求めることはできません。でも、そのつどの短期的な状況に最適化していると、長期的には不利益をもたらすこともあります。ですから、短期的な猫の目のようにくるくる代わる政策決定とは別の水準に、「これだけは変えてはならない」政体の構えがなくては済まされない。憲法はそのためのものです。(中略)立憲主義というのは、「法律ではこうきまっているのだから、それに従ってやりなさい。それがいやだったら法律を変えなさい」ということです。人治というのは、法律条文を権力者が自己都合で恣意的に解釈運用することです。もちろん法治と人治は截然と分離できるものではありません。ある部分までは法治、ある部分においては人治というのはどのような政体でもなされている。ソリッドな、勝手にいじってはいけない深層の骨格部分と、状況に応じて変化してよい表層の部分がある。問題はその境界線をどう引くのかの「さじ加減」です。今勧められている解釈改憲の動きは「法治から人治へのシフト」のプロセスだと言ってよいと思います。安倍首相は繰り返し、「総理大臣が最終決定者である」ということを強調していますが、それは「憲法や法律が想定していな局面において迅速に最適な政策決定を行う必要がある場合には、総理大臣に憲法や法律を超える権限を賦与するべきだ」というロジックに基づいています。
まさにそうだなぁ、という感想。僕らは、その「さじ加減」、そしてその人がどういう思想に基づいているかを見極めねばならない。そういうこともあって、内閣支持率は下がり続けているんでしょうが、それでもまだ43%もある。そこでこういう問いをたてて論じています。
なぜ、日本人は自分たちを主権者に見立ててくれている民主制と立憲主義を打ち捨ててまで、総理大臣に気前よい権限委譲をしたい気分になっているのでしょう。
僕はこのトレンドを「国民国家の株式会社化」という枠組みでとらえています。(中略)政治イデオロギーの適否判断よりも「経済成長」が優先的に配慮されている。最優先に問われるべきことは、その統治システムが「金儲けしやすい」かどうかであって、政体としての適否には副次的な重要性しか無い。そう考えている人達が国政をコントロールしている。
まさに安倍首相は「経済成長」という言葉をよく発していますしね。そして、長引く不況の中で、自分たちの苦しみを救ってくれるのは、経済成長だと思っている国民も多いのだと思います。政治ではなく、経済が救ってくれると思っている国民が多いのでしょうね。

長々、ダラダラとイデオロギー合戦を繰り広げた時代、結党解党を繰り返し、利権に囚われ、政策も法案も骨抜きの妥協案にしかならず、いっこうに変わらない世の中。閉塞感漂う中で、新しい道を見いだせず懐古的になっている。

そういう道もあるのだとは思いますが、僕は戦後一貫して経済成長に豊かさを求めて来た我々はそろそろ次の段階に移る時期なんじゃないのかなぁ、と漠然と考えています。明治から昭和初期にかけての欧米列強に支配されない国づくりから、追いつけ追い越せの道を歩む中で第二次世界大戦に突入し敗戦。焦土と化した国を復興させるべく、経済成長の道を歩む中、いきついたバブル崩壊。それから20年。様々な社会問題が山積し続ける中で「あの時代をもう一度」というところなんでしょう。国民は。それとグローバリゼーションの波に乗りたい政治家の意気投合なのかな。政治の世界にもイノベーションが必要なんじゃないのかな。

内田さんは

憲法の脆弱性は、その起源において「私が憲法を制定する」と名乗る主体が生身の人間として存在しないという原事実にある、と先ほど申し上げました。ということはつまり、起源に戻って憲法を堅く基礎づけるということはできないということです。であるとすれば、残された道は論理的には一つしかない。その起源においての主体の欠如を補填するために、「空文であった憲法を私たちが現実化した」と名乗り得る主体を立ち上げること、それしかない。

と語っていますが、今こそ、そうした「空語を充たす」道もあるのになぁ…と僕は思います。そのためには、復古主義的思想や経済最優先といった考え方を改める必要がある気がします。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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