「イキイキと生きる進路をひらくために」 ~親・学校・地域にできること~ に参加してきました。


さて、昨日のダンスフェスティバルの余韻を引きずりながら、今日は東京へ。「イキイキと生きる進路をひらくために」 ~親・学校・地域にできること~ というイベントで司会。

北星余市と懇意にさせていただいている、エルムアカデミー自由の森学園との共催。

コーディネーターは児美川孝一郎先生( 法政大学キャリアデザイン学部教授 )。

同企画の趣旨は下記の通り。
2013 年 1 月に開催され 100 名が参加した「イキイキと生きるための進路教育」シンポジウムの第 2 弾企画。今回は、じっくりと児美川先生のお話を聞きながら、事例報告では、各地域や学校が取り組んでいる様々な進路教育の実践や子ども・若者の状況、そして父母の話を聞きます。高校でやり直しを遂げた若者や社会に出た後、自ら起業した卒業生などの生の声をお届けします。
今回も大きなテーマは高校・大学・職業選択だけの進路指導ではなく、若者たちがこの社会で「どのように生きていくのか」ということ。 小・中・高校時代(あるいはそれ以後も)悩みを抱えて生きつつ、その後、社会人としてどう生きていくのか、そのための親や学校や地域はどうあるべきなのか。参加者を小グループに分けてグループ討論もおこない、より論議を深めていきたいと思っています。
進路教育なんて、どうあるべきか、自分の中でまとまっていない、ぜーんぜんまとまる気配すらないのに、司会だとか発表だとか。「ちょっといいの?」とか思いながら。

だいたい、進路教育なんて、とてつもなく遠大なテーマだと思う。個人の資質と社会の状況とご縁をベースに、どんな考え方をしてどんな選択をするか。単純化すれば、生きるってそういうことだと思うし、いわゆる学校における進路教育なんていうのはそのほんの一端を担っているだけで、生まれてから社会で自立するまでの家庭教育、学校教育、社会教育、出来事・経験、それら全てが進路教育なんだろうと思う。ローマは一日にしてならず、みたいな。

それを考えよう!というのだから、僕らも含めてエルムさんも自森さんもチャレンジャーだと思う、笑。でも、そういう姿勢が好きだし、大切だと思う。

進路教育に対して、自分の考えが定まっていないとはいえ、考えるところはある。

が、まぁ、それは今はいいとして、今日、児美川先生のお話から学び感じたことを一つ。

学校の先生になりたい、医者になりたい、弁護士になりたい、パイロットになりたい、大工になりたい…幼稚園や小学校の卒業誌には、決まって「将来の夢」のような欄があり、そこには職業が書かれている。けれど、中学生や高校生になると途端にそこが見えなくなる。それは子供たちが現実社会の厳しさを実感したからだと見ることもできるかもしれないが、僕が児美川先生の話から僕が感じたのは、それを大人がつぶしている可能性は大きいということだった。

子供たちが、将来の夢としてなりたい職業をあげていったとき、「おお、さすが我が子よ!」と両手を叩いて喜び、「さぁ、じゃぁ、それになるには何をしなければならないか考えなければならない」「そのためには勉強しなければならない」と考えるかもしれない。塾に通わせる親がいて、何かの専門的なスクールに通わせる親もいるだろう。「そんなものなれっこない」とはなっから流す人もいるだろう。

しかし、大切なことはそういうことではなく「この子がなぜ「学校の先生」に惹かれているのか、なぜ「医者」に惹かれているのかと考えること」なんだと。

そうしたとき、子供たちの興味が見えてくる。人に物ごとを教えること、自らの伝えることによって人がより良い人生を歩んでくれること、病気で困っている人を健康で幸せな生活へと導くこと、心の悩みに寄り添うこと、物を創ること、自分の創った物が社会の役に立っているという喜びを感じること。子供は言語化はしないしできないが、「なりたい!」というその職業の魅力を、きっと感じている。そこを大切にしてあげることが、きっと大切なことなのだと思う。

これらの『ある人物が自らのキャリアを選択する際に、最も大切な(どうしても犠牲にしたくない)価値観や欲求のこと』(Wikipediaより)をキャリア・アンカーという。

「やりたいことをみつけなさい」「なりたい職業を探しなさい」というヤリタイコト神話が、もはや強迫に近いレベルで子供たちの周りに押し寄せていると僕も思う。ずっと「なんか、違うんだよなぁ」と感じていたことが見えた気がした。

いつしか、医者になること、教師になること、アーティストになること、「なること」事態が目的となってしまう。なりたいものを見つけたって、それになれるのは実際は一部の人間でしかない。その目的が達成できないと察した途端に、自分はその点で負け組になり、努力が足りない、頭が悪い、自分は結局そんなもんだ…という意識になってしまう。いつしか、それでも社会で生きて行くためには、お金を稼ぎ飯を食って行かねばならないという現実が押し寄せて来て、そのことが働く目的となってしまう。夢は遠い彼方。

学校の先生にならなくたって、人に物を教える職業はいくらでもある。医者にならなくたって、人の健康に携わる職業はいくらでもある。大切なのは、その職業に就くことではなく、自分の中にある最も大切な価値観や欲求をいかにして実現していくのかということなのだろう。きっと、そこに基づいて生きている人というのは、イキイキとした生き方をしているに違いないと思う。

そして、もうひとつ。小さい頃に感じた興味や関心や使命を、大切に温めながら、大人になって実現する人も一部いるだろう。けれど、大半の人は、行ったり来たりしながら、それを見つけるものなのだということ。そうした価値観や欲求は、探しなさいといって見つかる物では、おそらくないのだろうということ。これは天からの贈り物のように、ふとした瞬間に舞い降りてくる物なのだと思う。ある日「あれ?なんか、オレ、こういうことに興味あるかも」と気がつく人もいれば、雷に打たれたような出来事に遭遇してそんな自分を見つける人もいるだろう。

そのためには、やはり、沢山の出来事、沢山の経験、それを生んでくれる沢山の人との出会いが、もっとも大切なことだと思う。職業人として働いている人で、今の自分のしていることに誇りを持っている人の中には、「最初はそのつもりはなかったんだけど…」という人は多いはず。そういうものなんだろうな…と児美川先生の話を聞いて思った。

うん、でも、だからといって「じゃ、沢山の出来事を経験させないと!沢山の人とふれあわせないと!」となってしまうことも、また違うような気がする。こういうことって「○○のためには、〜しなければならない」ということを強く意識された状態で、次の人に手渡された時点で、もはや強迫でしかなくなっていることが多い。

道端で見かけた猫は、人が意識をすると一目散に逃げ隠れてしまう。いくら猫がかわいらしくても、そばにいてほしいのなら、あえて興味がない雰囲気を醸し出しながら、見て見ぬ振りをするくらいの芸当ができないといけないのに似ていると思う。








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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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