コミ茶で「居場所」を考える会 〜 幅の広さをもつ

今日は夕方からNPO法人余市教育福祉村の宮井さんのお誘いで「居場所」を考える集りに参加してきた。

場所はコミュニティ茶屋
漂流教室の山田さんやひね塾の伊藤さんなど10名くらい集まってとりとめもなく「居場所」談義。

発端は小樽でフリースクールを始めたらどうかなぁ、、、と思っていらっしゃる方や、インターネット上でフリースクール的なことできないかなぁ、、、と考えていらっしゃる方を囲んで語れたらなぁ、、ということだったけど、集まったら結果的には「こういう集り、またやりたいね」という感じの会になった。

集りとは全然関係ないけど、ほんと、漂流教室の相馬さんもそうだし、山田さんも、面白いものの見方をしている人で大好き。

さておき。

今日ぼんやりと感じたのは、実は何をやっているのか明確だけど、一見明確じゃないような「人が集う場所」というのは、実は世の中の困りに対して、救いの要素を含んでいる場所なんだろうということ。

フリースクール、障害者支援、若者支援、親の会、さまざまな困難を抱えている方たちが集まって、それを解決しようと努力されている場所がたくさんあるけれど、そこに特化すればするほど、実は子どもも親も支援者も、その枠からなかなか抜け出せずにいる現状があるような気がする。

困難な状態を「支えて!理解して!」と言っているだけの人や場所、または困難な状態を世の中に合わせる方向でしか考えていない人や場所は、限界があるなぁ、、と。

「困難な状態」から「ハッピーな状態」になれるような仕組みを持っているところって、またはそういう人って、その状態を受け止めてもらう多様性を相手に持ってもらうこと、その状態を世の中のどこに組み込んでいくかということ、世の中に受け入れてもらえないその状態をどう変えていくかを、バランスよく見極めて関係を築いていると思う。

そういう人やところって、大方、なにやっているか、なんとなくわかるけど、「具体的に説明しろ」と言われると説明できないことが多いような気もする。「だって、あれもこれもそれもどれもやってるんです」っていう。

「はぁ、いろいろ、、、ですか。それで、あなたたちの達成目標はなに?」と聞かれても、明確な答えはなかなか帰ってこない。聞いた側は「え?」となったり、「ん?ずらされた?」と思えてしまったりする。でも、それは「これです!」なんて単純化できる話では、実はなかったりするだけで。

かといって、別になんでもいいわけでなく、話を聞いていると理念というか思想というか方向性というか、そういった柱になるようなものを持っている。

上の3つをバランス良く見極めて関係を築くためには、そのくらいの幅広さというか柔軟さというかが必要だということなのかもしれない。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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