【特別に育てられた子供の行く先は?】
特殊支援教育への懸念


Photo by levindenboer

文部科学省が平成19年度から力を入れている「特殊支援教育」。それは「障害のある幼児児童生徒」に対して特別な教育を受けさせ、その子供のその持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服させることが目的という。




この「障害のある幼児児童生徒」の「障害」とは何を指すか。肢体不自由、弱視、難聴、知的障害をもった子供が特殊支援教育を受けることは今までもあった。それに加え、ここ近年は、自閉症、情緒障害、学習障害、注意欠陥多動性障害などといった診断を受けた子供も、この「障害」の枠の中に入るという。


これらLDやADHDのような症状を「障害」と見るかどうかは、ここでは抜きにして考える。しかし、こういった俗にいう「発達障害」を抱えている子供たちを「障害者」と見ることがどういうことにつながるのかを考える必要があると思う。


「人間はみな平等である」「差別は絶対に許されない」、そういう世界を目指すことは否定しない。そういう世の中になったらどれだけいいかと思う。ぜひ、そういう世界を築き上げたいと思う。しかし、現時点、実際の社会においては、理想とかけ離れた世界が展開されている。「障害」をもっているという事実をしったときに、差別感を持つ人は多い。差別という言い方が問題であれば、区別感といってもいい。人としての尊厳までを否定するものではないが、この人は普通の人よりもこういう部分で力が足りないのだという認識をもつ。そして、私はそれで当然だと思っている。


こういうことをいうと「けしからん考えだ!」とお怒りになられる方もいらっしゃるが、実際の世界はそうである。障害者手帳というものがなぜ存在するのかを考えたらわかるだろう。ほかの人たちと何の違いもないのであれば、障害者であることを証明する手帳はいらない。証明することで、福祉を享受する必要もないのである。


その人には、ある力が足りないという認識に立ったとき、その人は障害を抱えていると考える。障害を抱えていると認識すると、特別な支援を受ける必要があると考える。これが障害者手帳の考え方であり、それは特殊支援教育の原点にもつながる考え方である。こうして、障害者の烙印を持ち、特別な待遇を受けることによって、その人は特別な人として周囲に認識されてしまう。それがその子供の将来にどういう影響を及ぼすか。


「僕は小学校5年生でADHDと診断されて、中学・高校と特殊支援教育を受けてきました」と面接でどうどうと語って、それをよしとしてくれる世の中ならいい。けれど、現実は違う。




LDやADHDのような発達障害と呼ばれている子供を特別扱いする必要が本当にあるのか。そして、そういう子供たちを障害者として位置づけて特別な支援をして、教育していく必要があるのか。私には疑問である。20年前には一般には聞かれなかった言葉。現在50代の人たちの中には、明らかにその「障害」にあてはまるような症状を持っている人でも、立派に社会で成功されている方たちがたくさんいる。


「発達障害」を重度に抱えている子供にはそういう支援も必要なのかもしれない。けれど、あれもこれもそれもどれも、LDじゃないか、ADHDじゃないか、アスペじゃないか、、、、そんな風潮のある今の日本で、そういうものを抱えた子供を特別扱いすることは、その子供の未来をつぶしてしまう可能性があるということも考えておく必要がある。


その子の個性、ぐらいがちょうどいい。そう思うのである。

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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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