学びと育ちが子供達に必要なんだと思う。

子供達に必要なこと。それは、学びと育ちである。

学びと育ちは色々な形で表れて来るが、その底流に流れているものは、自分が何者であるのかということの一端を、ある一定程度見いだすことのできる経験をしているかどうかだと思う。
経験をすることというのは、言い換えれば、体で理解することであり心で感じること。これなしに教科書に書かれていることを、ただひたすら頭の中に詰め込んでも、それが活かされることはないだろう。

だから、高卒の資格だけを取得することだけを目標にした高校時代を過ごすことは、とんでもないことだと私は思っている。

簿記2級の資格試験は年に3回行われており、毎回1万人〜2万人の範囲内で合格者が出ている。私たちはまるで資格があればそれで社会で自立して生活していくことが出来る、食べていくことが出来るかのような幻想を抱いている人がいるが、それは大間違いである。子供達を資格ブームに乗せて一安心しているのは大間違いだ。それらは人格がある一定育っている人にとって、ある程度有効な武器となるものであって、それがあれば安心ということはない。まして、メディアに取り上げられる資格なんかは、そこに群がる人であふれかえり「ない人よりまし」なだけである。

『僕は君たちに武器を配りたい』という本を書いている著者・瀧本哲史氏は、この資本主義社会においていかにして生きていくべきかをこの本で説いている。私は昨今の原理的すぎる資本主義社会に嫌気がさしていて、この本もその土俵で書かれている。しかし、瀧本氏はとても大切なことを書いていると思う。

経済学には「コモディティ化」という言葉があるそうだ。コモディティとはもともと「日用品」を指す。市場に出回っている商品が個性を失ってしまい、消費者にとってみればメーカーのどの商品を買っても大差がない状態をいう。まさに、私たちの周りにあふれるものそのほとんどがコモディティ化されているといえる。スペックが明確に定義できるもの、材質、重さ、大きさ、数量など数値や言葉ではっきり定義できるもの、つまり個性のないものは全てコモディティ。それはどんなにそのものが優れていても、スペックが明確に定義でき、同じ商品を売る複数の供給者がいればコモディティというのだ。

資本主義においては、需要と供給が経済活動のベースとなる。その結果、コモディティ化した市場では、恒常的に商品が余っている状態となり、同じ質であるなら安いものが求められる。つまり、徹底的に買いたたかれるということである。

弁護士の資格をとったって、簿記2級の資格をとったって、資格を持っている人がたくさんいればコモディティ化は成立する。企業は、業務マニュアルが存在し「このとおりに作業できる人であれば誰でも良い」と思っている。だから、どんなに資格を持っていても、同じ資格を持っている人が多ければ、あとは安く雇える人を雇うだけ。そうして、今、国学歴ワーキングプアと呼ばれる人がわんさかあふれている。

このとき同じ資格を持っていても他にはないものを持つ人、つまりそのコモディティ化の流れから抜け出すことの出来る人間というのは、他の人には代えられない唯一の人間になるということ。瀧本氏はこれをスペシャリティになることという。

私はこの唯一の人間という言葉を、個性に置き換える。唯一の自分を磨く方法というのは、個性を育てるということだろう。それは、自らの経験にもとづいた学びと育ちから見いだされることだろうと思う。少なくとも教科書には載っていない事柄だと思う。

知識を身につけること、試験で点数をとること、資格を取ること、こういったことも大切だろう。しかし、それを下支えする人格形成が、今、とても軽んじられていると私は思う。






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北星学園余市高等学校で教員をしています。
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